運・運命(日本ダービー予想)

古代ギリシア人は<人生に影響を与えつつも人知を超えた、計り知れない働き>というものに強い感受性を持ち、また、それを多彩な仕方で表現してきた。

現在まで伝え継がれてきたギリシア神話イリアス』の中にもその一端が見てとれる。

全世界は三つに分割され、三兄弟が各々それぞれの権能を割り当てられた。くじを引いて私は灰色の海にいついつまでも住むことになり、ハデスは暗々たる闇の世界を、ゼウスは高天と雲の漂う広大な天空を得た。そのほかに大地と高峰オリュンポスとは、我ら三神に共通のものとなった。されば私はゼウスの思い通りに生きるつもりはさらさらない、彼がいかに強力であろうとも、三分の一の持ち分に甘んじて、おとなしくしておればよいのだ。(『イリアス』15.189-196)

古代ギリシアの最も強大な神々であるゼウス、ポセイドン、ハデスの三兄弟が、自分たちの領地を定めるのにくじ引きを行った神話において、その次第をポセイドンが語る場面を引用した。

ここから読んでとれるのは、くじ引きという行為は神々であっても、恣意的に望むくじを引くことはできない、つまり、原理的な公正さを持っているということ。と、同時にくじ引きという公正で平等な方法は、結果が平等であることまでは保証しないということである。

そこで続けて見えてくるのは、くじ引きに象徴される、人間にはコントロールできない超越的な作用を、必ずしも単なる偶然の産物とは捉えず、むしろそれを運命として、すなわち必然の作用として、当時のギリシア人が受け止めていたということだ。なにもギリシア人に限った話ではなく、木片や石を投げることで、物事を決め、吉兆を判断してきた歴史は日本にだってある。

偶然に任せる方法によって、かえって必然的な運命を見定めようとする儀式は、世界中の文明・文化で広く見受けられる。あらゆる場所で人類は、運で運命を定めてきたのだ。

 

結果は“運”に左右される“偶然”で、その後の“運命”に“必然”を見る。そんな話を長々とタイプしたのは、週末に開催される祭典・日本ダービーの話につなげるためでして。

日本ダービーは(今さら書くほどでもないほどに有名な言葉だが)“最も運のいい馬が勝つ”という格言を有するレースであり、ギリシア神話を照らし合わせると、最も運のいい馬として見事にダービーを勝った馬は、ダービー馬という称号を得て馬生を全うする運命を背負う、と言える。

そんな運命に相応しいと考え、本命の印をつけたのはサートゥルナーリア。馬券の妙味を考えると、他の馬に本命を打ちたくなるところではあるが、能力の高さに疑いの余地はなく、調教過程も万全、隙のないレースぶりも好感で…… そして何よりも、ダービーで当馬に騎乗を予定していたルメールが騎乗停止処分を受け、世代最強馬の背中に跨ることになったレーン騎手(に「伝統あるレースをポッと出の騎手に勝たせるわけにはいかない」という批判も聞こえてくる)が、“最も運のいい……”という格言のある日本ダービーにおける勝利ジョッキーに相応しい、と考えたことが、本命印の大きな理由かもしれない。彼の運がどんな運命を定めているのか。本命の印を打ってしっかりと見届けたいのだ。

人間にとって世界の多くの部分は見通すこともコントロールすることもできず、運、運命にどうしても翻弄される。しかし、それでも、ただ成り行きに従って流れるのではなく、ときに気高く賢い仕方で、ときに弱く馬鹿げた仕方で、もがきながら対処し続けようとする姿に、人間らしさが立ち現れる。

これまたギリシアの詩人であり『オイディプス王』を著したソポクレスの言葉だが、まるで毎週のように競馬を続ける私たちに向けられた言葉のように読めてしまう。

ダービーが終わると新馬戦。競馬界における新たな一年が始まるわけで。まだ気が早いですが、次の一年も「人間らしく」競馬を楽しみたい所存であります。

 

不道徳的倫理学講義: 人生にとって運とは何か (ちくま新書)

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ギリシア神話に関する話はこの内容をメモしていたノートから切って貼ってしたもので、それ自体に明るくないので間違ってる箇所もあるかもしれません!ご容赦!西洋哲学史としても面白かったので、ご興味ある方は是非〜。


(追記)

本日、葵ステークスのアウィルアウェイにお金を賭し、ダービーの資金を増やそうという作戦を実行します。

さながら運試し。この運がどう転ぶか。その結果によってダービーに賭けられる金額が決まるという運命ってわけです。