「予想通り10万の負け。帰り、ヤケ酒とラーメン」――あるギャンブル中毒者(男性・50代・会社員)の日記を読む

 自宅からほど近くに「手帳類図書室」という施設がある。

人が記した手帳や日記やネタ帳など、あらゆる「手帳類」を収集する志良堂正史のコレクションを読むことができます。ギャラリーの一画で、誰にも見せるつもりじゃなかった手帳類を、1時間1000円からご覧いただけます。手帳類の筆致や筆跡、手触り、音、においなどを、あなたの五感で解釈してみてください。

 興味をそそられる人も少なくないだろう。現にテレビ・ラジオ・新聞・雑誌など、さまざまなメディアでその取り組みが紹介されている。私もかねて興味はあった。とはいえ、自らピーピング・トムになるということは少々気恥ずかしく、“気にはなるけど行ったことがない”施設のひとつとして、その横を通り過ぎるだけだった。
 そんな手帳類図書室に行ったという友人から一通のメッセージが届いた。
「この間、参宮橋の知らない人の手帳が読めるところに行ったよ。中年ギャンブラーが死ぬまでの手帳もあったな……」
 かねて、市井の博打打ちに関心を抱き続ける人間には「行く」「読む」以外の選択肢は残されなかった。“最後は死んでしまう人の日々が綴られた日記”ということで、ためらうような気持ちもよぎったが、好奇心には太刀打ちできない。

 

f:id:BxKxN:20200329181925j:plain

 メッセージを受け取った週末。早速行ってきた。洒落た雰囲気、入りづらいアートギャラリーの受付で「手帳類図書室」の利用を伝えると、その奥にある小さなスペースに案内される。リングで綴じられた収蔵手帳リストを渡され、一つひとつの手帳に割り当てられた番号を受付の女性に伝えるとその手帳が読めるシステムであることを知らされる。 脇目も振らずに目的の手帳を探す。あった。
 番号を伝えて手渡されたのは想像以上に大きな手帳だった。大きさはB5、厚みはおよそ3cm。茶色の革張りで、表面には21世紀からの10年日記というタイトルが刻まれている。

 

※あとで検索してみるとこの手帳のようです。日本直販

 

  日記の内容はというと…… 仕事の愚痴やスナックでの色恋、そしてギャンブルについての断片的な記録が端的に残されていた。正直な感想として、それはギャンブル愛好者の普遍的な日常だった。

 もちろん時々でグッと胸が絞られるような内容も日記に残されているのだが、それはきっと私たちの人生ともそう大差はない。私やブログを読んでいる人と違うことはといえば唯一で、すでに書き手が死んでしまっているということくらいだろう。忌憚ない言葉で書くと、あまりにも普通なギャンブル好きとしての日常があった。

 しかし、その日記を記していた人はすでにこの世にいない。つまり、私たちのような人間にとってあり得た(あり得る)一つの人生かもしれない。だからこそ、自分自身、そして、同じようにギャンブルを愛好するこのブログの読者にも紹介したいと思った。「手帳類図書館」に寄贈した人のメッセージを読むと「このような生き方をした人がいたことを知っておいてほしい」と書いてある。
 ならば、ブログで紹介してもいいだろう…… そんな思いで、こうしてブログを書いている。故人の日記を紹介する軽忽さを指摘されれば言い訳のしようもないのだが、一切収益化していない(そもそもできない)ブログでの紹介ということで、どうか勘弁されたい。

 

 日記を書き始めたのは2001年1月1日。以下、引用部は誤字・脱字を含めてすべて原文ママ(ただし読めなかった文字は××と記しています)。

2001/1/1
51歳で始めての日記ドキドキです。
年始の計画につつましく節約を勤めることをせず、年初に毎年正月はオケラになる。ゴルフだけにしておきなさい

 そんな思いとともに新年を迎えたにもかかわらず、男性は数日後早々に博打を始めてしまう。

 

2001/1/6
本日船橋オート初日。又気持が高ぶる。行くのをよそうと思いきや、行ってしまい、予想通り10万の負け。帰り、ヤケ酒とラーメン餃子で北区。正月休みは本日で終り。個人的には、いい休みとは言えなかったね。

 数日前の自分はなかったことになっているのだろうか。オートレース場に出かけて10万円の負け。さすがに大きな負けに懲りたのか、以降はギャンブルに精が出ない日々が続く。この二日後の日記には「まだ若い。70才まで仕事がしたいと思う」ともある。

 

2001/1/23
きのうもらったネクタイをしめ、はりきって出勤。相変わらず肩が痛くてダメのよう。会社の女性鈴木が薬とシップをもってきて朝から塗り込む。夜、サロンパスを貼ったら、少し軽快。金も無いので、自宅で食事を作り食べる。自分ちの食事は、自分で言うのも変だけど、本当においしい。

 いたってまともな生活を送っている。倹約に努めているようにもとれる。そう思いながら読み進めると、こんな日記が目に留まった。

 

2001/3/26
自己破産免責決定となる。会社へ行き、打ち合わせの後裁判所へ。(中略)僕は幸福な男だと思う。

 なんというか、懲りてない。私も人様のことをとやかく言えた立場ではないが、自己破産免責決定日に「幸せ」だとなるんだろうか。いや、なるのかもしれない。わからない。少なくとも男性はなっていたらしい。借金の原因はわからないが、日記を読むに事業を興しているわけでもなく、企業勤め(不動産関係)のサラリーマン。十中八九ギャンブル絡みの借金だろう。
 以降も男性のギャンブリングライフは続く。数千円、時に数万円の勝ち負けを繰り返し、仕事に努め、たまの贅沢に「台ワンクラブ」に出かけ、大きな変化の起こらない日常が続いた。ように思われたが、男性の心の中はそうではなかったらしい。

 

2003/1/16
本日パチンコを止める決意。56才にして始めてパチンコを止める決意

 これまでも、自分に向けて「よくない」とは書いている日記はあったものの、「決意」というほど強い言葉は出てきていなかった。新年を迎えたにあたって、ついに意志を固めたのだ。
 しかし、男性はその十数日後マルハンに赴いた日記を残している…… 次につながる日記がこうだ。

 

2003/2/5
止めようと思っているパチンコが止められず、本日は朝10:00出勤のパチンコである。本当にバカは死んでも治らないね。一日中して結局2万負け。そごうで買物し、×××の湯でくつろぎ、自宅には9:00過ぎ。今度はパチンコを止められそうかな!

どんな思考で「止められそう」と思ったのかはわからないが、男性はどうやらパチンコを止められそうだと思っているらしい。

 

2003/2/6
本当にパチンコを止められそう。今日最後の勝負で始めて、自分にはパチンコは向いていないと思った日はない。頑張れよ!!!(注:今日最後の気持ちでパチンコに行って負けた。自分は本当にパチンコに向いていない。これほどまでに痛感したのは生まれて初めてだ。の意だと思われる)(注注:これまでの日記でも何度となくパチンコに向いていないことについての呪詛は記されている)

案の定である。さらにその翌日。

 

2003/2/7
今日も仕事は真面目に行う。久しぶりに単チラを××××で2,000枚ほど巻き、多少昼寝もしたけど。あいみと××が木下サーカスへ行ってしまったことを聞き、残念。ゴルフ練習もとりやめ、パチンコへ行く。久しぶり2万プラス。

またパチンコに出向いている。ここまでくると、男性にとってのパチンコはあらゆる感傷を癒やしてくれるたったひとつの遊戯だったのかもしれない。

 

2003/2/8
仕事的にはヒマな一日。土曜日なのに。今日は2.8の日なので、パチンコウラノスの出る日だとのこと。又、仕事の帰りに行ってしまった。プラス0.8万の為、だんだんツキが回ってきたのかな。

 こんな風に、罪悪感を抱きながらも、ギャンブルをする自分を受け入れる日々が続く。ギャンブルの沼にはまった人間であるなら一度ならずとも抱いたことのある感覚だろう。

 日記は鉛筆であったりボールペンであったり、おそらく自分の身の近くにあったであろう筆記具で綴られている。一時は「今日はフデで書きたい気分」として、筆文字で日記をしたためていた日もあった。

 本人の言葉では「10年日記も半分を迎えた。なかななかな根性である」とのことであったが、その実日記を書くことを楽しみにしていたように感じらていたんじゃないだろうか。筆記具にこだわらず、その日あった出来事、感じた思いを、どの日も、スペースいっぱいに書き込んでいた。

 しかし、死期が近づくにつれ、どんどん文字がか細くなり、筆圧も弱まっていた。最後に記されていた一文はこんな内容だった。

 

2007/5/21

本日も朝から吐き出し、食べなくても胃酸が出っぱなしである。12時に××クリニックに行き診さつ。胃の中に胃酸1.8l入っている。これを取り除き、胃と胸の間にポリープ発見。××病院入院手続き。

  日記の巻末に(おそらく寄贈にあたって)貼られていた戸籍謄本によると、日記を書きしたためていた男性は2011年1月14日に亡くなっている。入院後も数年生き延びられたようだ。しかし、体調が芳しくなかったのか、日記が更新されることはなかった。

 入院している間、男性はギャンブルを楽しむことはできたのだろうか。日記に残されていないだけにわからない。しかし、いまはきっとどこかでギャンブルを楽しんでいることだろう。どこの誰かも知らないが、同じギャンブル好きとして冥福を祈った次第。

相応しさ(高松宮記念予想)

 今週も無観客開催である。競馬場・場外馬券場に足を運べない週末に、いい加減飽き飽きしてきている。が、世間は新型コロナウイルスでてんやわんや。仕方ない。今週も自宅のテレビ越しにレースを眺める。さて、高松宮記念の話。言わずとしれた電撃戦。とにかく外枠の馬は来ない。データを調べてみたわけではないが、そうと話が決まっている。たしかそうだったと記憶している。ローレルベローチェも外枠で敗戦した。そもそも馬の実力が足りなかっただけの話かもしれない。ともあれ、私の予想は7枠8枠の馬にバツ印をつけることから始まる。検討すればするだけ買いたくなる材料が出てくるだろうが、とにかくバツ印をつける。外枠の馬は来ないのだ。たしか。おぼろげな記憶では。本命はアウィルアウェイ。母系から短距離への適性が見てとれるし、まだ底を見せていない。何よりシルクロードステークスから高松宮記念に進んでくる馬が好きなのだ。勢いバッチリ。イケイケどんどん。そのまま海までぶっ飛ばせ。さて、珍しく余計な話を挟まず、一息で書ききった。短い。早い。高松宮記念にふさわしい更新になっただろう。決して手抜きというわけではない。以上。

『賭博者』を読んだ

f:id:BxKxN:20200328003943j:image

 って、読んだのはもうずいぶんと前のことではあるんですが……Twitterのタイムラインに読後の感想が流れてきたので、それに引っ張られるかたちで所感を書き残す。

『賭博者』はドストエフスキーが45歳のとき(『罪と罰』執筆の時期に重なるとされる)に著した、自身の体験に基づいた傑作小説だ。

 

 ロシア没落貴族出身の青年アレクセイは、ドイツの保養地に滞在する将軍一家の家庭教師をしている。彼には騎士道的な想いを寄せるポリーナという娘がいた。彼女に頼まれたことをきっかけにアレクセイが賭博を始め、物語は動き出す。
「ルーレットについて書いたものを何千冊もむさぼるように読んできた」という経験、そしてその読書によって築き上げた確固たる博打観を持って、ルーレテンブルグ(ルーレット市!)の賭博場に赴いた彼は連戦連勝を重ねる。得た巨万の富を、求め通りポリーナに差し出すのだが…… あろうことか、彼女はそれをヒステリックに拒否する。
 自暴自棄になったアレクセイは、愛してもいない娼婦と逃避行に出て、その先で金を巻き上げられてしまう。しかし、もうそんなことは大した問題ではなかった。むしろ、彼にとっては先刻承知のことだった。頭の中は賭博に支配されている。すでに賭博の道に足を踏み出している。自分自身のためにだけ賭け続けるーーそんなギャンブラーの道に……


 というようなあらすじで、とにかく実存主義的な思想、そしてファムファタール作品の色が強い。

 中盤、75歳のお婆ちゃんが豪快に賭博するあたりからエンタメ小説的ともいえる盛り上がりがあるものの、物語を通してそこにある質感は、諦念が平常心となり、希望や期待というものはどこかに捨ててしまって久しくなっているような男の心象風景だ。

 

 そんな主人公の青年のギャンブル観を表すくだりがある。

勝負には二通りある。一つは紳士の勝負であり、もう一つは欲得ずくの成り上がり者の勝負、ありとあらゆる低俗人種の勝負である。たとえば、紳士は5ルイ・ドル、10ルイ・ドル賭けても差し支えないし、それ以上賭けることは滅多にないが、それでも、もし非常に裕福ならば1,000フラン賭けたってかまわない。だが、それはもっぱら遊びのためにであって、本来、勝ち負けの経過を眺めるためにすぎないのだ。自分の儲けに関心を抱くことなぞ、決してあってはならない。勝負に勝ったら、たとえば、笑い声をあげるもよし、周囲のだれかに感想を述べるもよし、あるいはさらに二度、三度と掛け金を倍にすることさえ差し支えないのだが、それはもっぱら好奇心からであり、チャンスの観察のため、確率の計算のためであって、儲けようという成り上がり根性からでさない。一口にいえば、ルーレットにせよ、カードにせよ、あらゆる賭博台を、紳士たる者は、もっぱら自分の楽しみのために設けられた遊びとして以外に見てはならない。胴元を支える基盤でもあれば仕組みでもある金銭欲やトリックなぞ想像することさえあってはならない。

 グッとくる。胴元の鼻を明かして、いかにして金を儲けるか。ではないのだ。そのさらに先、欲望があらわになる世界における身の処し方おぞましさ、そして、美しさ。このモノローグこそ『賭博者』が傑作として読み継がれる所以ではないだろうか。

俺という愚かな生き物(阪神大賞典予想)

f:id:BxKxN:20200322101612j:image

 人っていうのは……っていうと主語が大きすぎるか。少なくとも私にとって、この度の新型コロナウイルスの一連の騒ぎはそこまで大きな問題ではない。想像力が足りないといわれても仕方ないが、トイレットペーパーもティッシュペーパーも備蓄があるし、仕事も騒動の直撃を受けるものではない。そりゃいずれ、回り回った不況は訪れるだろう。が、あまりに実感がない。もちろん、自分自身や周りの人が新型コロナウイルスに感染するリスクもあることはある。しかし、そんな心配はいくら心配しても足りないというわけで。ひとまず酒でも飲みながら他人事を決め込むのが精神衛生を含めて最も間違いない対処法だ……と、思っていたが、ついに私の生活にも新型コロナウイルスによる影響が、その影を写し始めた。

 

 もとより競馬の開催が無観客になり、場外馬券場も閉鎖となるといった影響は受けていた。ただし、これはあくまで「面白がれる」範疇のものだった。毎週のように競馬場・場外馬券場に足を運んでいた人間が、それを禁じられたときにどういう感情を抱くのか。同じような生活を何十年と続けている馬券オヤジ達は再開のときをどう喜ぶのか。はたまた無観客開催は競走そのものにどんな影響を及ぼすのか……
 この度の問題は深刻なのだ。月末締め切りの書き仕事でどうしても調べ物をする必要があるのだが、開いていない。都立図書館が。国会図書館が。どこもかしこも。これは困った。大上段に構えて書かせてもらうことが決まったのにもかかわらず、締め切りに間に合わせられないことが確定しているのだ。編集者の皆さんいまこの事態を一体どうやり過ごしてるわけ?! 人は笑うかもしれない。新型コロナウイルスの影響が甚大ってのはわかりきってるわけで。いまさら、つまり、自分の生活に影響が及ぶ段になって狼狽し始めるのは情けない姿に映ろう。しかし、歴史が示すとおり人間は愚かな生き物だ。仕方ない。私もそのご多分に漏れず、というわけだ。自分ごとになってようやく事の重大さに慌てふためき始めるのだ。とんだ愚かな姿である。

 

 インターネット投票用の口座を持っていないので、馬券を買うことはできないってのに「せめて重賞くらいは……」と、タブロイド紙を広げて予想する。今朝の私の朝食姿もなかなかに愚かだといえよう。今週末のメインレース・阪神大賞典ドレッドノータスに本命の印を落とした。10頭立ての10番人気。これまた愚かな予想といえるかもしれないが、京都新聞杯はタイトなラップのレースを好位から出し抜く競馬の巧さを見せている。条件戦上がりの人気馬もいる。重賞好走歴のない馬も少なくないという面子。土曜日は前が止まらないレースも目立った。前で受けるキセキを牽制することになるだろうその他人気馬のことを考えると、二着までならなんとかなると見た。ディアデラノビアの仔らしい頭の高い走法に似合わぬ長距離を駆けるさま。日曜の夕方。注視したい。

一競馬ファンによる新型コロナウイルスについての覚書

(少なくとも自分の知るかぎりでは)SF作品にも描かれてこなかったような“鈍い停滞”に世間が包まれている。

中央競馬は無観客開催を決めて2週間。次の開催もこの急場の処置が続くと発表された。つまり、馬券を楽しむ世の中の競馬ファンが1人残らず全員電子投票で馬券を購入しているということになる。これはむしろちょっとSFっぽい話(一方、極右の紙馬券派である私は今週も馬券が購入できないことが確定済)。


勢いに倣って、SF的なモードで話を推し進めてみることにしよう。
なんというか、アレですよね。今回の騒動は中途半端な科学技術の発展がもたらした事態であるようにも感じてしまう(すみません完全文系の戯言です)んですよね。
えらい早い段階で新型のウイルスということが特定できてしまったから問題化してしまったといいますか、なんといいますか。
少し前の時代だったら「今年の冬はちょっと面倒な咳風が流行ってるねー」程度で、あらゆる催しが中止・延期・自粛に追いやられるほどの事態にはなってなかったんじゃねえの?俺が馬券を楽しめないなんて事態にはなってなかったんじゃねえの?
そう思うと、今回の新型コロナウイルスにも、中途半端な科学技術にも八つ当たりしたくなってきちゃうって話。とはいえ不平不満ばかりを言ってても仕方ない。暗いと不平を言うよりも進んで明かりをつけましょうってなわけで。ちょっと落ち着いて、競馬ファンとして、周りを見渡してみる。

 

と思うと、あるつぶやきが思い浮かんだ。
「無観客で実施されるようになってからのレースは堅いオッズに収まることが多い……」といったそれだ。Twitterにも手をつける競馬ファンであれば、きっと目にした意見だろう。少なくとも自分のTLには散見された。
大レースでの「オイオイ」が端緒となって問題視、というか白眼視されているだけに、ついついこの意見にも首肯してしまいそうになるが、果たしてどうなんだろうか。確かにここ2週間の開催は順当な決着が多かったように感じるものの、なんというか釈然としない。

現地にいる新聞記者はこんなふうに書いている。

 

どっちが正解でどっちが間違いって話じゃないけど、自分はまだ後者の意見の肩を持ちたい。普段であれば「試行回数が云々かんぬん」「統計で競馬予想を云々かんぬん」と喧伝することも少なくない競馬“ 予想 ”ファン達が、この2開催だけを切り取って「無観客=馬が実力通りに走れる=堅くなりがち」と考えるのは早計を通り越して、ちゃんちゃらおかしいと思ってしまうのだ。この鈍い停滞に押しつぶされかけて、無意識のうちに通常の思考とは違うパニック状態に陥ってしまっているんじゃないかとも感じた。ってなんだか、やけに攻撃的になってしまった。よくないよくない。これもあれか。新型コロナウイルスのもたらすストレスのせいか。

 

それにしてもなんといっても、こういう有事の際に一番忌避しなければいけないのはパニック状態に陥ることでしょう。
この期に及んで冒頭からの流れを引きずってSFの話を引っ張り出すのは、自分の単細胞っぷりに嫌気が差す話だが、バカSFの歴史に燦然と光り輝く超弩級の大傑作として知られる『銀河ヒッチハイク・ガイド』を思い出さなければいけない。「Don't panic」っすよ。パニックになるな。うん。

 

なんとも、早くいつもどおり競馬が開催される日常が戻ってきてほしいっす。毎週繰り返されるレースの規則正しさ、そこに集ういつもと変わらない博打好きの一喜一憂。そんな場所に身を置いて安心を感じていたいもんっす。

P.S. 即PATへの登録を本格的に考え始めました。