不条理と向き合うーーアルベール・カミュの心持ちで(ラジオNIKKEI賞予想)

午後からWINS汐留に出向き、友人と馬券を打つ。取り取られを繰り返し、プラスマイナスほぼ0の戦況で迎えた最終レース。その日の勝負レース候補の一つであった函館12Rで攻勢をかけた。本命はローリングタワー。

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スタートの瞬間の画像がこれだ。ゲートが開いた直後に躓き落馬。1秒にも満たぬ時間で負けが決まった。憤りと諦めが入り混じった眼でモニターを見つめていた。

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カラ馬になったローリングタワーは完璧な仕掛けで後続に推定5馬身の差をつけて圧勝した。


唖然・呆然・自失・放心。ルールの内側のことだとはいえ、スタート直後の落馬はいただけん。たら・ればは禁句だし、カラ馬で斤量がなくなっていたとはいえ、この圧勝ぶりは不条理な何かを薄っすらと感じた。

とはいえ、ギャンブルをやっていると、このような不条理に直面する事態は少なくない。それこそカラ馬が直線で他馬を邪魔することもあれば、不可解な写真判定もあれば、放馬した本命馬がそのまも出走を決めた時にも不条理を感じる。八百長だってなくはない。“理不尽”という形容が適切なものも含まれるが、不条理を突きつけられることも多分にある。


今日開催されるラジオNIKKEI賞もある種の不条理さを孕んだレースだ。クラシック最前線になを連ね続けることこそ叶わなかったが、重賞に出走するほどの力を備えたメンバーを待ち受けていたのは熾烈な雨。

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自然の影響をモロに受けることを踏まえたうえで競馬という競技・ギャンブルを受け入れているのだから、ファンとして文句があるわけではないが、良馬場での走りを期待して育成を続けてきた陣営の側に立つと、不条理な感情を抱いても不思議はないだろう。

さて、ここでタイトルに立ち返る。名前を挙げたアルベール・カミュは、不条理に対抗する手段として、不条理を意識して生きることを掲げた人物だ。不条理を受け入れることで、より気高く自由に生きられると言い切ったのだ。私はその教えをストレートに受け止める。そう、あらゆる不条理を受け入れる精神的筋力を鍛えるために私は今日も賭場に向かうのだ。

本命の印を落とした馬は、不条理な境遇に立ち向かい、(時に敗北を味わわされながらも)自身の姿勢を崩さず、結果的に輝かしい成功を収めた生涯から「最も傑出した敬虔なる女傑」と呼ばれる“ゼノビア”の名を持つウインゼノビア。奇しくも冒頭で取り上げたローリングタワーに騎乗していた松岡騎手が跨る予定の馬だったが、件のレースの落馬で津村騎手に乗り替わりとなっている。

これでウインゼノビアが勝利を収めようものなら、その「超」不条理な物語に私は膝を打ちながらほくそ笑むだろう。札幌でのレースぶりからこの重馬場に対応できる素地は備えていると見る。たまらん。

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唐突な書き出しですが、ここ最近「賭け事」をする人間の心性についていろいろと考えておりまして……

その流れであまねく(とまでいうと大げさではありますが)資料の読み漁りに努めているのですが、そうするうちに、競馬予想の「歴史」が顧みられる機会が全くと言っていいほどないという事実に気づいてしまいました。

競馬予想の歴史について(自分の観測上)書籍に歴史は残されておらず、インターネットをあたってみても、“かつては記者がおらず、騎手が新聞に予想を公開していた”だの、“大川慶次郎の展開予想から予想そのものに多様性が生まれた”だの…

「それは知っているんですけどねえ」といった中途半端な情報がヒットするばかりでして。

競馬予想の歴史。

これ、誰も興味ないかもしれませんが、個人的に関心の高いトピックで、別の機会にまとめてみようと思います。と妙な宣言をしたところで、今回はまた別の話。その導入、といいますか。なんといいますか。

 

競馬予想の現在地

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……とりあえず、歴史というほど大げさではなく、競馬予想について現在地を見渡してみると、少し前には『レジまぐ』『まぐまぐ』といったメルマガが存在して、競馬予想ブログ、2ch、予想会社の通信販売、ソフトウェア販売、もちろんスポーツ紙や競馬専門紙とか……さっと思いつく近年の予想(発表・販売)媒体はそんなところでしょうか。

なんだか、どれもパッとしませんなあ……斜陽……右肩下がり……そんな言葉が付きまといそうな媒体ばかりですよ、こりゃ。いやはや、競馬予想の現在地、一体どうなっとるんだ!

と、書いてはみたものの、アレから目をそらすわけにはいかんですね。『note』ですよ。『note』の登場・浸透で、ついぞ素人が予想を販売することが当然、そんな世界が到来したわけです。スマホの爆発的普及に端を発して、決済手段の多様化が更にそれをアシスト。街場のインターネット競馬予想を席巻しているわけです。こうしたうねりはこれまで街場の競馬予想にないものだった。って、こりゃ印象批評以外の何物でもないんですが、まあ実際にそうでしょう。スマホでピッピッパッとやってしまえば、それが販売できるわけですから。

 

なぜ『note』がこれほど普及したのか

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『note』がプラットフォームとして優れているとかなんとかいう話ではなく、テックの発達と呼応した流れで、プロフェッショナル(とされる人)の予想よりも、身近な競馬強者の予想の方が価値を帯びるんですよ。プロフェッショナルなモデルよりも等身大のインスタグラマー。プロフェッショナルなAVよりもFC2のハメ撮り。競馬以外の文化産業とも相似する流れで、世の中の機運とはなんとも風が吹くように一様に流されるもんだなあと思う次第で……って話が逸れる逸れる。

はてさて競馬予想における『note』の隆盛の話。

自分の予想が「マネタイズ」(どうでもいいですが嫌いな言葉のひとつ)できることに気づいた人はいち早くセルフブランディング(どうでもいいですが嫌いな言葉のひとつ)し始め、それはそれは強固な支持基盤を獲得しているのが現状と言えましょうか。

流行り始めの頃は、まだその拝金主義の影が非難の対象になることもありましたが、最近はそんな風潮は一切なく、むしろ販売者がリスペクトの対象になっているような雰囲気すら感じます。いやあ、世の中の機運ってのはこれほどまでに風が吹くように一様に流されるか、と思うわけですが(2回目)。

 

 

上手いシロウトと下手なプロ?

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まあ、自分もそんな風に流されているんですよ。

自分自身が文章を書いて配信するってわけではないけど、いわゆる“有料予想”と称されるものへの嫌悪感は和らぎました。

むしろ、よくよく考えると当然のことかも、と思うようになりました。まあ風に流されてそう思うようになったわけです。

先述したインスタグラマーとかFC2のハメ撮りとか。そんなマクロな観点でもそうだし、ミクロな観点でも、例えば野球評論では1人のファンがダルビッシュにアドバイスを送って、それが認められ、本を出版。発売直後から版を重ね続けるほど売れる。それだけ内容がいい。

格闘技の世界も現状日本トップの興行団体でスターの座を張る朝倉兄弟は数年前まで格闘技を習ったこともないストリートのヤンキーですよ。

上手いシロウトと下手なプロ、といいますかなんといいますか。

プロと素人の線引きは、有資格でなければ就くことのできない仕事を除いては、とかく融解しているわけでして、そうなると、下心とか血生臭さのない(厳密に書けばないわけではなくて、それが表出しづらい)素人に人気が集まるのも当然な流れなんではないでしょうか。

というわけで、そりゃ、まあ競馬予想のプラットフォームとして『note』が流行るのも当然だし、使う人も少なくないだろう、と。

 

先行できる者は強い

とかなんとか、考えていると友人がこんなサービスを始めるようです。

つまるところ、競馬版『note』ですね。

って!ここまでの文章は全部PRのためかーい!と思われる方もいらっしゃるかもしれませんな。しかし、断じてそういうわけではないんです。自分が↑のサイトで予想を販売するわけではないですし、このエントリで金をいただいているってこともありません。そして、何よりPRのためならもっと狡猾に話を運びますわ。少なくとも競馬版『note』とは書きませんわ。

そもそも嫌というほど仕事で文章を書いて、いくばくかのお金をもらっているわけで。このブログはお金のことを考えずに、文章を自由に書く悦びを満喫することで、自分の精神的バランスをとっていることが目的なわけで(これは後期三島由紀夫的な発想だけど、話が別道に逸れてしまうので省略。『新体育』に寄せた原稿における芸術とスポーツに関する話。省略。)。


とはいえ、知り合いがサービスを立ち上げるわけですから、そりゃ徒労に終わってほしくないという気持ちはあります。ぶっちゃけ。

というわけで、引き続き書いていくと、少々いやらしい話ではありますが「先行者利益」という言葉がありますね。

ビジネスにおいて、新たな市場にいち早く参入することによって得られるメリットを指す語です。ほら、競馬でも前にいった馬が穴を開けることは往々にしてあることじゃないですか。 実力がなくても前につけたらなんとかなるなんてことは往々にしてあるわけで。そういうわけで。

自分の予想を「マネタイズ」(どうでもいいですが嫌いな言葉のひとつ)したい人は早いうちから手をつけるに越したことはないと思います。

まだ始まりたてで「なんやねんこれ。ようわからんし流行り物にのるのはいっちょ様子見しとくか」という発想は至極当然のものだと思いますが、そうするうちに先行勢は「マネタイズ」(どうでもいいですが嫌いな言葉のひとつ)を続け、自分たちの領域を拡大し続けるわけです。早いうちから手をつけるに越したことは無いと思います。

ここから先は、プラットフォームとしての『教えて!競馬民』に対して、使いづらかったり、何も改善されなかったり、そうしたら、その時に見限ればいいのだと思います。競馬で「マネタイズ」(どうでもいいでs……しつこいか)を考える人にとっては、ほんと早いうちから手をつけるに越したことは無いと思います。

 

最後に
と、ウダウダツラツラ書き連ねてきましたが……

サービスの今後は運営・広報・時代性に左右されると思うので、現時点で触れようとは思いませんが、こうしたプラットフォームが生まれたことは全面的に歓迎しています。

最後に、

あらゆるギャンブルの根底には、安全への強い確信を願望しているという面がある。

人は不確実な状態を望み、ギャンブルの世界に入っていくが、決着は常に念頭にある。実際、確実性と確信を求める情熱が強すぎるあまり、人は己の安全を試すために、何度も何度も不確実な状態に入らなければならないと感じる……

このように、逆説的に聞こえるかもしれないが、ギャンブルは確実性と確信、すなわち確かだと感じられることを求めるあがきである。単に不確実を求める願望ではない。

ーー『ギャンブルの衝動』クレメンス・J・フランス,1902

アメリカの心理学者が残した言葉で〆としたいと思います。どうやら出版から100年以上の年月が経った今もギャンブラーは何ら変わっていないようです。

偉大な兄弟の話(ノットオーウェル)

マイペース、協調性ナシ、頑固で人と同じことをするのが嫌い、競争心がない、一人の時間を好む、面倒を見るのに慣れてない、独占欲が強い、集団で浮く、団体・集団行動が嫌いで縛られたくない……
挙げればキリがないほど、「一人っ子」のパブリックイメージはネガティブなものが多い。

 

と、書く私も一人っ子だ。
しかし、なにも好き好んで一人っ子に生まれてきたわけではない。兄弟姉妹のいる友人が子供の頃から羨ましかった。できることなら末っ子がよかった。兄姉がいたら、文化的にも体力的にも大きく刺激を受けることができたように思う。
現に、スポーツ選手には一人っ子や長男長女が少ないといわれる。たとえば2013年のサッカー日本代表メンバー23名のうち長男だったのはわずか2人。一人っ子にいたっては1人もいない。それほどまでに一人っ子のハンディキャップは大きい。
……と、つらつら書いたものの、そんなこと「隣の芝は青い」というだけの話なような気もする。
それに、自分の周りの兄弟姉妹を持つ人は、同じ両親から生まれ、同じ家庭で育ったにもかかわらず「どうして片方がこうなった……」みたいな落ちこぼれタイプの人が多く、本人もそれを引け目に感じている、というケースも少なくない。
一方の兄弟が余りにも偉大すぎた場合、「じゃない方」の兄弟として、胸を張って生きていくことができるのかどうか……と考えると、「やっぱり俺は一人っ子でよかったわ」という思いも立ち上がってくる。

 

今週開催される宝塚記念で本命の印を落とした馬は、いったいどのような心持ちで、毎度レースを走っているのだろう。馬はそもそも自分の兄弟、血筋について感じることがあるのか、ましてや兄弟姉妹のレースでの活躍ぶりは直感するものなのか、全く想像が及ばない。
ただ、本命馬の兄弟はあまりにも偉大だ。欺瞞を承知で書けば、あれほどまで偉大な兄弟を持っていれば、なにかしらを感じてしまう部分もあるのではないかと思ってしまう。
菊花賞ジャパンカップ天皇賞有馬記念大阪杯を勝ち、生涯獲得賞金はJRA歴代1位……そんなキタサンブラック、の兄・ショウナンバッハに本命の印を打った。
偉大な兄弟の存在で陰に隠れ続けてきた馬生(とまで書くと生涯複勝回収率100%超の頑張り屋さんに対して失礼だが)だったショウナンバッハが、その偉大な兄弟すら勝ち取ることができなかった宝塚記念の栄冠をつかむ。そんな姿が私は見たい。なんならキタサンブラックよりひとつでも上の着順で入線する姿が私は見たい。
一人っ子ではあるものの、常に「じゃない方」として扱われてきただけに、ショウナンバッハの肩を持ちたい。

適材適所を超越する(ユニコーンS予想)

うまいことを言う人がいるもんだ…

と思った一方で別の考えが浮かんだ。たしかに羽生善治に野球は難しいかもしれないが、大谷翔平は茶道すらもこなしてみせるんじゃなかろうか。それも完璧な形で。


銭湯の脱衣所に置かれたテレビで野球を見ていたら、普段は亀のように動かず、無気力な番頭のおばあちゃんが「あれだろ大谷翔平はすごいだろ。」と声をかけてきた。初めて声を聞いた。

野球に興味のない友人知人も、なぜか大谷翔平に関しては、まるで自分の親戚かのように応援している。

夕刊フジも、日刊ゲンダイも、大谷翔平の話題に関しては、茶化すことなくわが子を誇らしく見守る父のような視点の記事を連発。

本当に大谷翔平ワンダーボーイ。野球において、投手と野手、必要な体力・精神力・技術は異なる。にも関わらず、適材適所を超越した恵まれた能力で世界をアッと驚かせ続けている(どころか最近の大谷はあまりの凄みゆえに世界を沈黙させているといった方が適当かもしれない)のだ。


さて、野球に野手と投手があるならば、競馬には芝馬とダート馬という区分があると言えるだろう。野球がそうであるように、芝とダートでは走るうえで求められる能力は異なる。それだけに、馬券において"芝で良績を残してきたダート転向の人気馬"を購入することは悪手と言えよう。

しかし、今回本命の印を落とすことに決めた馬は、その悪手、芝からダートへの転向馬。ワイドファラオだ。

ワイドファラオが大谷翔平のように適材適所を超越する能力を持っているかどうかはわからないが、大谷翔平が現在進行形で残している偉業に比べれば、競馬における二刀流は前例もあるし、てんで不可能な話というわけではないだろう。


適材適所が求められすぎるあまり、分業化が細かく細かく細かく細かく進んだ社会は果たして幸福な社会なのか、一人ひとりの労働は単純な作業に帰してしまうのではないか。近未来に起こり得るディストピアを杞憂する。

適材適所を超越するほどの絶対的な能力を私は持っていないから、そんな近未来が訪れた時には即座に一作業員という立場に堕してしまうだろう。

だからこそ、適材適所を超越する能力を有した存在に憧れ、夢を見、馬券を買う。頑張れ大谷翔平ユニコーンSの本命はワイドファラオ。

続けることの話(エプソムC予想)

石の上にも三年。継続は力なり。雨垂れ石を穿つ。愚公山を移す。臥薪嘗胆。不断節季。万里一空。積土成山。積水成淵。粒々辛苦。

何かを続けて何かを成すことは、どうも人の心を打つ普遍的な魅力があるようで、現在に至るまで多くの故事成語・ことわざとして、語り継がれてきた。


たしかに何かを続けて何かを成すということは、それはそれは美しいことだと感じる。的場文男東京ダービーを勝てばいたく感動するだろうし、艱難の果てに2,000本安打を達成した新井貴浩の姿には涙がこぼれる一歩手前までいった。身の回りに熱心に仕事を続けて昇進を重ねる憧れの先輩がいる、という人も少なくないだろう。

しかし、それは何かを成しているからこそ生まれる魅力であって、何かを続けることそのものに価値はあるのだろうか。

続けるという選択には弊害もある。例えば昨今の高齢者による危険運転問題もそうだ。

(これまでも起こっていた事故が顕在化しているだけでは…という考えを持ちつつも)彼ら彼女らは運転をし続けてしまったがために、悲惨な事故を起こしてしまった。決まりきってこぼす言い訳は「アクセルとブレーキを踏み間違えて」だ。これ以上書き連ねることも嫌になるほど悲惨な事故を起こしておきながら。そんな言い訳を吐く。


というわけで早々に競馬の話に移る。

エプソムカップで本命の印を落とした馬はプロディガルサン。これまで幾度もこの馬に本命を打ち続けては、裏切られ、馬名の由来(「放蕩息子」)をひしひしと味わわされてきている。

正直に書くとここでも買い続けるべきなのか、それともここでその継続に終止符を打つべきなのか考えた。しかし、まだ買い続ける。本命はプロディガルサン。

アクセルとブレーキを踏み間違えてしまう。そんな事態に陥らない結果を願いながらレースを見守る。


プロディガルサンに本命を打ってきた足跡はこちらからご覧いただけます……

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