最高の「応援」映画『アルプススタンドのはしの方』を観た
これは傑作かもわからんね。振り返りながら(夜食の準備を後回しにして)感想をまとめる。
物語の背景・あらすじはこうだ。
第63回全国高等学校演劇大会で最優秀賞となる文部科学大臣賞を受賞し、全国の高校で上演され続けている兵庫県立東播磨高校演劇部の名作戯曲を映画化。夏の甲子園1回戦に出場している母校の応援のため、演劇部員の安田と田宮は野球のルールも知らずにスタンドにやって来た。そこに遅れて、元野球部員の藤野がやって来る。訳あって互いに妙に気を遣う安田と田宮。応援スタンドには帰宅部の宮下の姿もあった。成績優秀な宮下は吹奏楽部部長の久住に成績で学年1位の座を明け渡してしまったばかりだった。それぞれが思いを抱えながら、試合は1点を争う展開へと突入していく……
有り体にいえば、高校野球部を応援させられる非体育会系男女が紡ぐ物語である。
とはいえ、映画において野球の場面は一切登場しない。これがこの映画の最大の特徴だ。まるで密室劇のように、(一部を除いて)アルプススタンドだけを映し続け、物語が展開する。
しょうがないと思えるほど力差のある目の前の試合、大学受験の悩み、応援が結果にもたらす意味効果、演劇部で起こったトラブルからくるすれ違い、好きな男子の話……一貫して目の前で繰り広げられる野球の結果に大した興味を示さず(なんなら主人公格のキャラクターは「野球部の奴は偉そうに振る舞うから嫌い」だとすら宣言する)、あらゆるうまくいかないことを「しょうがない」と片付けながら、4人のぎくしゃくした会話劇が続く。
一方、アルプススタンドの熱血『アルプススタンドのはしの方』を観た教師は、そんな彼ら彼女らに「腹から声を出して応援しろよおおおおおお!」と管を巻く。しかし、彼ら彼女らの耳にそんな言葉は届かない。
「応援したところで結果は変わらないからしょうがない」「ならば応援したってしょうがない」「結果が出なくたってしょうがない」……
誰だって一度は思ったことがある、そんな思いで、無理やり応援に連れて来させられた愚痴を吐き続ける。しょうがない…しょうがない…しょうがない……
そんな彼ら彼女らに変化をもたらすのは、プロのスカウトからも目をつけられている野球部のエース園田に恋心を寄せる優等生女子宮下の「しょうがないって言うのやめて」という一言から。
「頑張ってるのに、周りで見てる人に勝手にしょうがないとか言われたら嫌だと思う」
淡い恋心からくる発言かどうか。相手の立場に立った想像力かどうか。その両方なのか。とかく周りを諫める。突然の一言に不穏な空気が流れるも、徐々に、徐々に、アルプススタンドのはしの方にいる彼らが、グラウンドの選手たちを応援し始め、次第に腹から声を出し、選手を鼓舞する……エモーショナルに、徐々に、徐々にグラウンドに立つ(しかし映らない)選手たちに声を上げ始める。
突如として、何かが決壊したかのように応援を始める彼ら彼女らに最初は困惑した。甲子園という異様な空間、吹奏楽部が爆音で鳴らすテーマソングに酔ってしまっただけなんじゃないのか?一時のuniteによる興奮で感情的になっているだけなのではないのか?これを感動的な話で片付けていいのか?
そんな心配は無用なのだ。この映画は団結の「美しさ」から、もっと先に突き抜ける。甘さはない。むしろ、応援の意義を再定義するかのように、物語はある種、残酷に展開する。
試合が進行し、4点ビハインドの8回から2点差に追いつき、そのまま9回を迎えて二死満塁。当然のごとく、応援の声を絶やさぬアルプススタンド。バッターボックスには前の回に代打でバントを命じられた矢野。彼は決して野球エリートではなかったが、3年間たゆまぬ努力を続けてきた。「しょうがない」と口にすることなく、練習に打ち込み続けてきた。だからこそ、前の回に代打で使われ、決定的な場面で重要な役割を担うことになった……が、彼ら彼女らの声援を置き去るように、矢野は凡退し、試合は決着する。
応援が結果を導かないままに試合が終わるのだ。応援によって、試合結果が好転することはないのだ。
ここで映画が終わる……美しい……と思いきや、スクリーンは、そこから5,6年後の未来のアルプススタンドを映す。4人がまたアルプススタンドに集結するのだ。ただし、今度はプロ野球の試合が行われるアルプススタンドに。
そこで彼らが応援するのはある一人の登場人物。あのとき、かつて、二死満塁で凡退した矢野だ。打ったボールは……なんとホームラン。「しょうがない」を口癖にせず、努力に打ち込んできたキャラクターが最終的に報われる……といういたって神話的なオチ。に思われるかもしれない。ただ、あそこで描かれているのは、そこに再集結した4人の存在だったのだ。頑張り続ければ日の目を見る。そんなラストの解釈も否定はしない。ただ、あそこで注目すべきは再集結した4人だ。
「応援」を通じて互いに腹を割り合った4人だ。そのときは一時的な熱狂だったかもしれない。だが、そこで互いに腹を割り合って、声を荒らげ「応援」した4人だ。「応援」という利他主義的な行為が回り回って、個に還元されうるのだ。その瞬間の美しさたるやない。誰かに応援されるよりも、誰かを応援することの方が一般的な人生において、よっぽど多い。ただ、応援し続けることは、応援され続けることと同じくらい価値のあることなのかもしれない。
とかく、私はマスクを水浸しにして劇場をあとにした。