スポーツ“ファン”シップについて考えた

東京ドーム近辺を散歩ルートにしている身として、年々こうしたトラブルを目にすることが増えている。一昨日の楽天日ハム戦でもSNACK SHACKの前あたりで言い争う男女を目にした。

昔のように、甲子園お馴染みの踏み絵(スタンド入り口にばら撒かれた巨人選手の野球カードを踏みつけながら球場に入場する)や、「くたばれ読売」などの過激な応援(そもそも応援じゃないけど)フレーズがそこかしこで見聞きされる時代ではない。

にも関わらず、個人個人の揉め事が増えているのは一体なんでなんだ。過激なトラブルが起きている実数を正確に計り知ることはできないし、たまたま自分がそうした場面に遭遇することが増えているだけかもしれないが、気になったので考えてみた。


時代が変わったからこそ溜まってしまうフラストレーションが真っ先に思い浮かぶ。大きくわけて二つ。

・断続的なネガティブ情報への接触

SNSで「#carp」「#giants」などと検索したウインドウを開いたうえでの野球観戦はとても楽しい。自分では気づかない選手の細かな動作、知らなかった知識に触れられることもあるし、得点や好プレー時などの喜びが重なる瞬間には擬似同期的な昂りがある。

その一方で過剰な毀誉褒貶ぶりで選手を貶める発言が目につくこともある。贔屓の選手について苦言を呈す人もいれば、アンチとして煽るように暴言を吐く人もいる。個人の意見が表面化するぶん色々な種類のネガティブ情報に接触することがどうしても増えてしまう。野球ファンであればTLに野球好きが何人かいて、それぞれが好き勝手につぶやく(それがSNSの魅力だけど)わけで、それを目にする時間もさまざま。かつては野球観戦中とプロ野球ニュース放送中くらいでしか感じなかったフラストレーションを断続的に受け取ってしまう状況に置かれている人は少なくないように思う。

・コミュニティ意識の高まりによる弊害

Twitterが登場した頃、ウォーホルの「人は誰しも15分間は世界の有名人になれる」といった言葉がやたら持て囃されていたように、当初は個人の小さな声をあまねく伝える拡声器としての意義が強かったTwitterだが、現在はその役割を脱色しつつあり、コミュニティの扉といった色合いが強くなってきている。複数アカウントの所持、趣味垢なんて言葉も一般化。野球応援用のアカウントを持っている人も少なくないように見受けられる。となると、起こりうるのが「(内)外集団同質性バイアス」で、贔屓を共有している自分たちの集団は、もう片方の集団よりも優れているという集団意識が形成されて、他球団のファンを「自分たちとは別の集団に入っている人たち」と見なし、過度の仲間意識、集団意識、ひいては差別意識につながってしまう。そこまで排他的になる人がどれだけいるかは不透明なものの、そうなるきっかけは確実に増えている。


最近のファン同士の過激なトラブル増加について、ぱっと思いついたのが上の二つだった。別にこの状況、そしてこの現状に加担している人たちに苦言を呈したいわけでは全くない。

いろんな人がいる。だから面白い。

そもそも“正しい”応援なんて存在しないし、“正しい”ファンなんて存在しないと思っている。「嫌な気持ちをする人がいるからやめましょう」「トラブルを起こさないようにしましょう」といった文化搾取の優等生的な意見を表明したいわけでもない。むしろ、過激とされる人たちの熱のこもった応援は自分にとってある種の球場ならではの風景だという思いすらある。とはいえ、その熱そのままに自分がトラブルに巻き込まれたら嫌ですよねー。


というわけで、スポーツ“ファン”シップなんて言葉があってもいいのかもしれないなあと思う。

・競技そのものへの愛着

・対戦相手へのリスペクト

・贔屓球団を応援している自分を相対的に見ることができる

自分が野球を観戦する上で最低限持っておきたいスポーツファンシップは上の三つ。

皆さんのスポーツファンシップはどんなもんでしょう。そんなもん必要ないって?まあそういう向きもありますよね。

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以上、同情にこそ慣れているが、批判の的になることに慣れていないカープファンが忸怩たる心境を棚卸ししつつ吐露した次第であります。