相応しさ(高松宮記念予想)

 今週も無観客開催である。競馬場・場外馬券場に足を運べない週末に、いい加減飽き飽きしてきている。が、世間は新型コロナウイルスでてんやわんや。仕方ない。今週も自宅のテレビ越しにレースを眺める。さて、高松宮記念の話。言わずとしれた電撃戦。とにかく外枠の馬は来ない。データを調べてみたわけではないが、そうと話が決まっている。たしかそうだったと記憶している。ローレルベローチェも外枠で敗戦した。そもそも馬の実力が足りなかっただけの話かもしれない。ともあれ、私の予想は7枠8枠の馬にバツ印をつけることから始まる。検討すればするだけ買いたくなる材料が出てくるだろうが、とにかくバツ印をつける。外枠の馬は来ないのだ。たしか。おぼろげな記憶では。本命はアウィルアウェイ。母系から短距離への適性が見てとれるし、まだ底を見せていない。何よりシルクロードステークスから高松宮記念に進んでくる馬が好きなのだ。勢いバッチリ。イケイケどんどん。そのまま海までぶっ飛ばせ。さて、珍しく余計な話を挟まず、一息で書ききった。短い。早い。高松宮記念にふさわしい更新になっただろう。決して手抜きというわけではない。以上。

『賭博者』を読んだ

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 って、読んだのはもうずいぶんと前のことではあるんですが……Twitterのタイムラインに読後の感想が流れてきたので、それに引っ張られるかたちで所感を書き残す。

『賭博者』はドストエフスキーが45歳のとき(『罪と罰』執筆の時期に重なるとされる)に著した、自身の体験に基づいた傑作小説だ。

 

 ロシア没落貴族出身の青年アレクセイは、ドイツの保養地に滞在する将軍一家の家庭教師をしている。彼には騎士道的な想いを寄せるポリーナという娘がいた。彼女に頼まれたことをきっかけにアレクセイが賭博を始め、物語は動き出す。
「ルーレットについて書いたものを何千冊もむさぼるように読んできた」という経験、そしてその読書によって築き上げた確固たる博打観を持って、ルーレテンブルグ(ルーレット市!)の賭博場に赴いた彼は連戦連勝を重ねる。得た巨万の富を、求め通りポリーナに差し出すのだが…… あろうことか、彼女はそれをヒステリックに拒否する。
 自暴自棄になったアレクセイは、愛してもいない娼婦と逃避行に出て、その先で金を巻き上げられてしまう。しかし、もうそんなことは大した問題ではなかった。むしろ、彼にとっては先刻承知のことだった。頭の中は賭博に支配されている。すでに賭博の道に足を踏み出している。自分自身のためにだけ賭け続けるーーそんなギャンブラーの道に……


 というようなあらすじで、とにかく実存主義的な思想、そしてファムファタール作品の色が強い。

 中盤、75歳のお婆ちゃんが豪快に賭博するあたりからエンタメ小説的ともいえる盛り上がりがあるものの、物語を通してそこにある質感は、諦念が平常心となり、希望や期待というものはどこかに捨ててしまって久しくなっているような男の心象風景だ。

 

 そんな主人公の青年のギャンブル観を表すくだりがある。

勝負には二通りある。一つは紳士の勝負であり、もう一つは欲得ずくの成り上がり者の勝負、ありとあらゆる低俗人種の勝負である。たとえば、紳士は5ルイ・ドル、10ルイ・ドル賭けても差し支えないし、それ以上賭けることは滅多にないが、それでも、もし非常に裕福ならば1,000フラン賭けたってかまわない。だが、それはもっぱら遊びのためにであって、本来、勝ち負けの経過を眺めるためにすぎないのだ。自分の儲けに関心を抱くことなぞ、決してあってはならない。勝負に勝ったら、たとえば、笑い声をあげるもよし、周囲のだれかに感想を述べるもよし、あるいはさらに二度、三度と掛け金を倍にすることさえ差し支えないのだが、それはもっぱら好奇心からであり、チャンスの観察のため、確率の計算のためであって、儲けようという成り上がり根性からでさない。一口にいえば、ルーレットにせよ、カードにせよ、あらゆる賭博台を、紳士たる者は、もっぱら自分の楽しみのために設けられた遊びとして以外に見てはならない。胴元を支える基盤でもあれば仕組みでもある金銭欲やトリックなぞ想像することさえあってはならない。

 グッとくる。胴元の鼻を明かして、いかにして金を儲けるか。ではないのだ。そのさらに先、欲望があらわになる世界における身の処し方おぞましさ、そして、美しさ。このモノローグこそ『賭博者』が傑作として読み継がれる所以ではないだろうか。

俺という愚かな生き物(阪神大賞典予想)

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 人っていうのは……っていうと主語が大きすぎるか。少なくとも私にとって、この度の新型コロナウイルスの一連の騒ぎはそこまで大きな問題ではない。想像力が足りないといわれても仕方ないが、トイレットペーパーもティッシュペーパーも備蓄があるし、仕事も騒動の直撃を受けるものではない。そりゃいずれ、回り回った不況は訪れるだろう。が、あまりに実感がない。もちろん、自分自身や周りの人が新型コロナウイルスに感染するリスクもあることはある。しかし、そんな心配はいくら心配しても足りないというわけで。ひとまず酒でも飲みながら他人事を決め込むのが精神衛生を含めて最も間違いない対処法だ……と、思っていたが、ついに私の生活にも新型コロナウイルスによる影響が、その影を写し始めた。

 

 もとより競馬の開催が無観客になり、場外馬券場も閉鎖となるといった影響は受けていた。ただし、これはあくまで「面白がれる」範疇のものだった。毎週のように競馬場・場外馬券場に足を運んでいた人間が、それを禁じられたときにどういう感情を抱くのか。同じような生活を何十年と続けている馬券オヤジ達は再開のときをどう喜ぶのか。はたまた無観客開催は競走そのものにどんな影響を及ぼすのか……
 この度の問題は深刻なのだ。月末締め切りの書き仕事でどうしても調べ物をする必要があるのだが、開いていない。都立図書館が。国会図書館が。どこもかしこも。これは困った。大上段に構えて書かせてもらうことが決まったのにもかかわらず、締め切りに間に合わせられないことが確定しているのだ。編集者の皆さんいまこの事態を一体どうやり過ごしてるわけ?! 人は笑うかもしれない。新型コロナウイルスの影響が甚大ってのはわかりきってるわけで。いまさら、つまり、自分の生活に影響が及ぶ段になって狼狽し始めるのは情けない姿に映ろう。しかし、歴史が示すとおり人間は愚かな生き物だ。仕方ない。私もそのご多分に漏れず、というわけだ。自分ごとになってようやく事の重大さに慌てふためき始めるのだ。とんだ愚かな姿である。

 

 インターネット投票用の口座を持っていないので、馬券を買うことはできないってのに「せめて重賞くらいは……」と、タブロイド紙を広げて予想する。今朝の私の朝食姿もなかなかに愚かだといえよう。今週末のメインレース・阪神大賞典ドレッドノータスに本命の印を落とした。10頭立ての10番人気。これまた愚かな予想といえるかもしれないが、京都新聞杯はタイトなラップのレースを好位から出し抜く競馬の巧さを見せている。条件戦上がりの人気馬もいる。重賞好走歴のない馬も少なくないという面子。土曜日は前が止まらないレースも目立った。前で受けるキセキを牽制することになるだろうその他人気馬のことを考えると、二着までならなんとかなると見た。ディアデラノビアの仔らしい頭の高い走法に似合わぬ長距離を駆けるさま。日曜の夕方。注視したい。

一競馬ファンによる新型コロナウイルスについての覚書

(少なくとも自分の知るかぎりでは)SF作品にも描かれてこなかったような“鈍い停滞”に世間が包まれている。

中央競馬は無観客開催を決めて2週間。次の開催もこの急場の処置が続くと発表された。つまり、馬券を楽しむ世の中の競馬ファンが1人残らず全員電子投票で馬券を購入しているということになる。これはむしろちょっとSFっぽい話(一方、極右の紙馬券派である私は今週も馬券が購入できないことが確定済)。


勢いに倣って、SF的なモードで話を推し進めてみることにしよう。
なんというか、アレですよね。今回の騒動は中途半端な科学技術の発展がもたらした事態であるようにも感じてしまう(すみません完全文系の戯言です)んですよね。
えらい早い段階で新型のウイルスということが特定できてしまったから問題化してしまったといいますか、なんといいますか。
少し前の時代だったら「今年の冬はちょっと面倒な咳風が流行ってるねー」程度で、あらゆる催しが中止・延期・自粛に追いやられるほどの事態にはなってなかったんじゃねえの?俺が馬券を楽しめないなんて事態にはなってなかったんじゃねえの?
そう思うと、今回の新型コロナウイルスにも、中途半端な科学技術にも八つ当たりしたくなってきちゃうって話。とはいえ不平不満ばかりを言ってても仕方ない。暗いと不平を言うよりも進んで明かりをつけましょうってなわけで。ちょっと落ち着いて、競馬ファンとして、周りを見渡してみる。

 

と思うと、あるつぶやきが思い浮かんだ。
「無観客で実施されるようになってからのレースは堅いオッズに収まることが多い……」といったそれだ。Twitterにも手をつける競馬ファンであれば、きっと目にした意見だろう。少なくとも自分のTLには散見された。
大レースでの「オイオイ」が端緒となって問題視、というか白眼視されているだけに、ついついこの意見にも首肯してしまいそうになるが、果たしてどうなんだろうか。確かにここ2週間の開催は順当な決着が多かったように感じるものの、なんというか釈然としない。

現地にいる新聞記者はこんなふうに書いている。

 

どっちが正解でどっちが間違いって話じゃないけど、自分はまだ後者の意見の肩を持ちたい。普段であれば「試行回数が云々かんぬん」「統計で競馬予想を云々かんぬん」と喧伝することも少なくない競馬“ 予想 ”ファン達が、この2開催だけを切り取って「無観客=馬が実力通りに走れる=堅くなりがち」と考えるのは早計を通り越して、ちゃんちゃらおかしいと思ってしまうのだ。この鈍い停滞に押しつぶされかけて、無意識のうちに通常の思考とは違うパニック状態に陥ってしまっているんじゃないかとも感じた。ってなんだか、やけに攻撃的になってしまった。よくないよくない。これもあれか。新型コロナウイルスのもたらすストレスのせいか。

 

それにしてもなんといっても、こういう有事の際に一番忌避しなければいけないのはパニック状態に陥ることでしょう。
この期に及んで冒頭からの流れを引きずってSFの話を引っ張り出すのは、自分の単細胞っぷりに嫌気が差す話だが、バカSFの歴史に燦然と光り輝く超弩級の大傑作として知られる『銀河ヒッチハイク・ガイド』を思い出さなければいけない。「Don't panic」っすよ。パニックになるな。うん。

 

なんとも、早くいつもどおり競馬が開催される日常が戻ってきてほしいっす。毎週繰り返されるレースの規則正しさ、そこに集ういつもと変わらない博打好きの一喜一憂。そんな場所に身を置いて安心を感じていたいもんっす。

P.S. 即PATへの登録を本格的に考え始めました。

ご当地グルメin賭場ーー「WINS高松」の「うどん」は旨いのか

見知らぬ土地を訪れ、専門紙を広げ、博打を打つ。旅打ちのあの心躍る感覚はギャンブルを愛する身であれば、誰もが共感できるものだろう。
他に旅打ちの魅力はというと……「食事」だろうか。地場の名物を腹一杯味わう。そんな旅の根源的な喜びはギャンブラーであろうと、一般の方と代わりなく抱くものだ。
しかし、旅打ちにおける食事には、ひとつ大きな問題がある。博打打ちには時間がないのだ。一般的な観光旅行では考えられないほどの時間を賭場で過ごしてしまうことが大きな原因といえるだろう。9時から17時まで競馬場で過ごしきりなんてこともざらにある。つまり、とにかく、食事のために割く時間がないのだ。
それだけに、博打を楽しみながら地場の名物も楽しめるなら、それに越したことはない……というわけで、今回の旅打ちでは、賭場で地元飯も一緒に味わっちゃいましょう! そう決めうった男のプチ旅打ち記である。

 

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はるばる訪れた先は香川県高松市
競馬に関連させて書いておくと『日本競馬読本』を著した菊池寛の出身地である。海沿いの工業用地では盛んに製鉄業が営まれ、手袋の生産数は全国一、高松城の南側には道を張り巡らせるように商店街が広がる。そんな高松市の名物はというと……もちろん「さぬきうどん」だ。

 

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高松駅に降りたった私は駅前の散策はそこそこに、すぐさま無料バスに乗り込みWINS高松へと向かった。独特のすえた臭いが漂う車内で過ごすこと10分ほどで目的地に到着。

 

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広大な土地にギャンブラーのためのデカい箱が建てられている。場内にいるのはいつものWINSで見かける人たちと変わりなく、無彩色の服で身をまとったおじさま方ばかりで味わい深い。馬券を買いながら、フードコート的なエリアを探してうろつくと、あった。

 

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「カフェテリア」を発見。メニューを左から右に眺めていると……ある。「うどん」がしっかりメニューのひとつに並んでいる。ソフトクリームの広告ばかりが目立つが、たしかにうどんも販売している。うどんに五月蝿い香川県民が集う賭場で、うどんを出している店がある、のだ。メニューの中で決して目立っているとはいえないが、これは逆にあれだろう。あまりにうどんを打ち出しすぎると、ただでさえ高いハードルをことさら引き上げることにつながってしまうからだろう。「別にウチは専門店じゃないですけど。でもメニューには並べてますんで。香川県民が集う賭場で。メニューに並べてますんで。決してプッシュするわけじゃないですけど。メニューに並べてるってことはそういうことなんで。あとは察してくださいな。」このひっそり具合が逆に自信の現れだと見た。
これは嬉しかった。そもそもWINSにうどんがあるかどうかすらわからないままに向かっていたのだ。それでいて、私はかねてうどんが大好きなのだ。上京から10年が経ち、蕎麦を食べる機会も増えたものの、うどんが大好きなのだ。神保町の丸香、本郷のこくわがた、赤羽のすみた、大泉学園の長谷川……都内の有名店にはあらかた通った。
ようやく、本場、香川の地でうどんが食べられる。迷うことなく注文した。

 

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ずっと本場のうどんが食べたかった……が、これはどうだ。見るからになんてことないうどんである。一口すすってみると……コシのコの字もない……kの字すらない……ボロボロ麺……出汁はいりこの風味が……全くしない……旅行気分をいくらマシてもどん兵衛以下の味である…….

 

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その後はキッチリ「手打十段うどんバカ一代」まで出向いて本物のさぬきうどんをいただいた。こちらはツルッとナイスな喉ごしで大変美味。しかも安い(ぶっかけうどん320円)。当たり前の話なんですが、賭場で全ての欲求を満足させようと横着してては駄目ですね。馬券すら満足に当てられないってのに。
ヤマなしオチなしイミなし。そんな昔ながらの「ヤオイ」スタイルでお送りした次第です。