『賭博者』を読んだ

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 って、読んだのはもうずいぶんと前のことではあるんですが……Twitterのタイムラインに読後の感想が流れてきたので、それに引っ張られるかたちで所感を書き残す。

『賭博者』はドストエフスキーが45歳のとき(『罪と罰』執筆の時期に重なるとされる)に著した、自身の体験に基づいた傑作小説だ。

 

 ロシア没落貴族出身の青年アレクセイは、ドイツの保養地に滞在する将軍一家の家庭教師をしている。彼には騎士道的な想いを寄せるポリーナという娘がいた。彼女に頼まれたことをきっかけにアレクセイが賭博を始め、物語は動き出す。
「ルーレットについて書いたものを何千冊もむさぼるように読んできた」という経験、そしてその読書によって築き上げた確固たる博打観を持って、ルーレテンブルグ(ルーレット市!)の賭博場に赴いた彼は連戦連勝を重ねる。得た巨万の富を、求め通りポリーナに差し出すのだが…… あろうことか、彼女はそれをヒステリックに拒否する。
 自暴自棄になったアレクセイは、愛してもいない娼婦と逃避行に出て、その先で金を巻き上げられてしまう。しかし、もうそんなことは大した問題ではなかった。むしろ、彼にとっては先刻承知のことだった。頭の中は賭博に支配されている。すでに賭博の道に足を踏み出している。自分自身のためにだけ賭け続けるーーそんなギャンブラーの道に……


 というようなあらすじで、とにかく実存主義的な思想、そしてファムファタール作品の色が強い。

 中盤、75歳のお婆ちゃんが豪快に賭博するあたりからエンタメ小説的ともいえる盛り上がりがあるものの、物語を通してそこにある質感は、諦念が平常心となり、希望や期待というものはどこかに捨ててしまって久しくなっているような男の心象風景だ。

 

 そんな主人公の青年のギャンブル観を表すくだりがある。

勝負には二通りある。一つは紳士の勝負であり、もう一つは欲得ずくの成り上がり者の勝負、ありとあらゆる低俗人種の勝負である。たとえば、紳士は5ルイ・ドル、10ルイ・ドル賭けても差し支えないし、それ以上賭けることは滅多にないが、それでも、もし非常に裕福ならば1,000フラン賭けたってかまわない。だが、それはもっぱら遊びのためにであって、本来、勝ち負けの経過を眺めるためにすぎないのだ。自分の儲けに関心を抱くことなぞ、決してあってはならない。勝負に勝ったら、たとえば、笑い声をあげるもよし、周囲のだれかに感想を述べるもよし、あるいはさらに二度、三度と掛け金を倍にすることさえ差し支えないのだが、それはもっぱら好奇心からであり、チャンスの観察のため、確率の計算のためであって、儲けようという成り上がり根性からでさない。一口にいえば、ルーレットにせよ、カードにせよ、あらゆる賭博台を、紳士たる者は、もっぱら自分の楽しみのために設けられた遊びとして以外に見てはならない。胴元を支える基盤でもあれば仕組みでもある金銭欲やトリックなぞ想像することさえあってはならない。

 グッとくる。胴元の鼻を明かして、いかにして金を儲けるか。ではないのだ。そのさらに先、欲望があらわになる世界における身の処し方おぞましさ、そして、美しさ。このモノローグこそ『賭博者』が傑作として読み継がれる所以ではないだろうか。