2月になってする初夢の話(根岸S予想)

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どこかで喋ることもなく、どこかで書くこともなく、このままいくと例年のように、どんな夢を見たのか忘れてしまう。別に忘れたってなんら支障がないが、ふと思い出してしまったわけで、2月にもなっていまさら初夢の話をする。来年のことを言えば鬼が笑う……ではないが、そんな趣がある……はい。今年はこんな内容だった。

【場所】
会社らしき場所

【服装】
スーツに革靴(普段こんな格好をすることは滅多にない)

【内容】
広いフロアに私1人。絶対に間に合わせなければいけない案件があり、熱を入れて仕事をしている。働き詰めてなんとか一仕事片付けた私は、書類をプリントしながら、フロア内の喫煙所へ向かう。
すると、コピー機の方からガチャガチャと轟音が聞こえ、ありがちなビープ音で私の名前を呼び続け、一歩、また一歩とこちらに近づいてくる(ように感じる)。
ちらと見てみると、そこにはターミネーターの敵役でおなじみT-800が居る。こちらに向かって走ってきている。(さっきまで1人だったはずなのに何十人もの人と一緒に)慌てて逃げ出す。1人…また1人…と逃げている集団が減っていく。最終的に私1人が残って……

といったあたりで目を覚ました。夢占い本を手繰る必要もなく、思い当たる節があった。
12月下旬。忘年会ラッシュの二日酔いを言い訳に、「溜まった仕事は正月休みでどうにか片付けりゃええわ!」と鷹を括っていたにもかかわらず、年が明けるまでパソコンを起動することすらなく、享楽のかぎりを尽くして過ごし続けてきた自身への後ろめたさだ。やらなきゃいけないのに目先の楽を取って過ごす。それじゃダメだとわかっているのに……そんな深層心理があんな夢を私に見せたのだ。間違いない。起きた時は背中が汗で湿っていた。
日常生活で誰かに追いかけられることなんて、そうそうない。だからなのか、追いかけられる夢はとにかく恐ろしい。追いかけられるのは、本当に、本当に、恐ろしいのだ。

って、人が見た夢ほど、どうでもいい話はなかなかない。
というわけで、今週末の重賞で本命を打つ馬の紹介に移りたい。こちらも多くの人にとってどうでもいい話かもしれないが、そりゃまあ、この文章を読んでくださっているわけで、そういうわけで、どうかご勘弁ください。

週末に開催される根岸Sは、実力馬がフェブラリーSへの叩き台として使うレースという顔があるため、普段、重賞には手の届かない馬が「一泡吹かせよう」「賞金を稼いでやろう」と勝負を仕掛けるのにうってつけのレースといえる。
そのため、道中もダラッとした流れになることは珍しく、近年の同重賞でも、差し・追い込み馬の台頭が目立つ。今回の出走馬を眺めると、そんなレース質にぴったりの走りを全うする馬を見つけた。本命の印はカフジテイクに落とす。
過去に開催された同レースの傾向にアジャストしていく体裁の予想は、普段の予想ではやらないものの、これくらいレースの役割・立ち位置がはっきりしているのなら悪くないのではないか……
今年見た初夢の話ではないが、追いかけ、追いかけ、逃げる馬を恐れ慄かせる……そんな豪脚に日銭を賭けたい。

三日間開催を終えて

遊ぶ金と時間がないからということもあるが、今年の博打はノロノロ運転。メインレースを中心にお気に入り馬をつまみ買いする程度でカジュアルに楽しんでいる。
2020年初の三日間開催もそんな具合だった。買い物の合間に淀短距離Sロジクライを塗り、家で餃子をつくりながらタガノビューティの走りを眺め、散歩ついでにウインドラブリーナを買った。
ハズレ、ハズレ、ハズレ。
盛り上がる瞬間すらなく、書いていないレースも含めて全てのレースが不的中という無残な結果。
「カジュアルに楽しんでいる」と書きこそしたものの、負けたら負けたで、相応に悔しい。
せめてブログ更新のネタとして消費するしかない。

 

最悪の事態こそ免れたものの、新年早々アメリカとイランが緊迫状態に置かれ、ザワザワした心持ちが続いた。政治・経済への参加意識がまるでない私のような人間ですら、今回の問題を子細に解説する記事を熟読し、最悪の事態を憂いた。杞憂に終わったからよかったものの、事が事だけに気が気じゃないような心持ちは続いた。プライベートでも、周りの不幸が重なったり、持病が痛み出したり。なにかとパッとしない日々が続いたこともあってか、かなり気落ちしていた一週間を過ごしていたように思う。

 

だが、そんな気持ちも場外馬券場に一歩足を踏み入れると幾分晴れやかになる。大方の確率でこれから金をドブに捨てることになるとわかっていながら、上気してしまうんだから不思議なもんだ。


なんというか…… “○○に救われた”なんて感じたことはないし、そう言う人を目にするたびに「まあ大袈裟なこと言っちゃって…」と思っていたが、“気づかぬうちに○○に救われていた”ということは、もしかするとあるのかもしれない。
そんなことを感じた三日間開催だった。
毎週繰り返されるレースの規則正しさが。変わらずそこに居る無彩色の衣類を身に纏った人の姿が。俺に安心を運んできた。
そんなふうに言い聞かせて馬券購入を正当化。来週もまた場外馬券場に出向く。

『スター・ウォーズ』カノン完結に際しての簡潔な感想をメモしておく

年の瀬に『スカイウォーカーの夜明け』を観てガックリ。

とはいえ、PS4のゲーム『ジェダイ フォールンオーダー 』をプレイしつつ、高橋ヨシキ氏の『スター・ウォーズ 禁断の真実』を読み、過去作を見返し……と、なんだかんだスター・ウォーズにどっぷりだった2019年末でした。

なんというかもう、新作を見てから毎日「あーでもないこーでもない」と頭の片隅でずーーーーっと考えてましたよね。これはどうなんだ、あれはどうなんだ、どういうことなんだ……うーん……ってな具合で。はい。時間が経ったこともあってか、ようやく自分の気持ちに整理がついたので、ひとまずいまの感想を簡潔に書き残しておこうと思いまして。

そんな感じでつらつら口語調で書き連ねていくわけですが……スター・ウォーズっていう歴史的大作の完結を飾る『スカイウォーカーの夜明け』が、新しいキャラクターが旧作に引っ張られすぎだとか、三部作と連携取れてなさすぎだとか、「スノークはなんだったんや!」とひっくり返るしかできないボスキャラの再配置だとか、フォースの拡大解釈だとか……細かなところ(とはいえそれは枝葉末節というわけではない……)は、もうこの際いい。許す。どの立場から物申してるのかわからんがいい。許す。いやー、でもやっぱり許せないですよ。いや、許せないってわけではなかったですけども。いや、でもねーあれはねー。なんというか。わかりますか。複雑なんですよ。やっぱり。


とはいえ、今作もシークエルの他の作品が持つ決定的な欠損を抱え続けてるってことは間違いないと思うんですよ。というか、抱え続けてるんですよ。

それは「懐かしさに負ける新しさはいらない」ってこと(これはオレのエピタフでもある)ですよ。これが決定的に残念なわけですよ。

映画はメディアとして誕生した時点から「見られないものを見る体験を提供する」(歴訪記録映画しかり『駅馬車』しかりフリークスの大ブームしかり)って性質に囚われ続けるわけで。その性質に順接的に時代をライドし続けた唯一の作品がスター・ウォーズっていう作品だと思うわけですよ。そうなんですよ。スター・ウォーズは私たちに、時代時代に即した「新しさ(フレッシュネス)」を提供してきてくれたわけですよ。年齢がバレるけど(別にバレて困ることはないけど)、オレはプリクエルとともに小学生を過ごした世代で、世のスター・ウォーズファンから疎まれる『クローンの攻撃』すらそれほど嫌いじゃなくって、クローン大戦のグリーヴァス将軍が人生で初めて買ったプラモデルだったりするわけですよ。なんでそんなにもスター・ウォーズに魅了されるかっていったら、そりゃもう。わかりますよね。前段の繰り返しにもなりますが、「こんなの見たことない!かっけえええええ!」を常にオレたちに提供し続けてきてくれたからですよ。ジョージ・ルーカス自身も「新しいビジョンを提供する」ことに対する意識が高かったことは自明なわけで。

とかく!!!!!!!!!

それがシークエル三部作には皆無なんだよ!!!!!!!!!!


ノスタルジックオーナーシップに囚われてるだけかもしれないけど、そうだとしたらもう仕方ない。純然たる批評じゃなくて、オレという人間の感想としてそうなんだ。少なくとも2020年始の感想としては。うん。

マンダロリアンしかり、クローンウォーズしかり、楽しい作品を発表してくれることに感謝はある。ディズニーに対して。ただ、ただ、ルーカスの生み出した宝を無碍にしたキャスリーン・ケネディにはほんと憤怒を禁じ得ないし、過去作へのお伺いを立て続けて退廃にひたる(ようにすら見える)スター・ウォーズをオレは見たくなかった。うん。

金杯はいつも当たらない(2020中山金杯予想)

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理解できないからこそ知りたい欲求が湧く。

年末年始に手に取った『不確定性原理ー運命への挑戦』も、まさしくそんな興味から読み進め始めた本だった。

要旨は「卑近な例を挙げながら量子論を“やさしく”解説する」というもの。しかし、いかんせん文系一直線のオレにはとっつきにくい内容が多く、全く“やさしく”ない。が、行ったり来たりを繰り返しながら読み進めているなかで、興味深い話題があったので、そんな話から始めたい。

「どんなに複雑なものでも、位置と外力を正確に測ると運動が決定される」という、ニュートン力学の根本的な考え方を飛躍させて生まれた「ラプラスの悪魔」と呼ばれる世界観があるらしい。「ラプラスの悪魔」とは、「もしもある瞬間における全ての物質の力学的状態と力を知ることができ、かつ、もしもそれらのデータを解析できるだけの能力の知性が存在するとすれば、この知性にとっては、不確実なことは何もなくなり、その目には未来も(過去同様に)全て見えているであろう。」という考え方だという。要するに「現在の状態を完全に測定できれば未来も完全に予測が可能。原因によって常に結果は決定づけられている」という主張なわけだ。

たしかに。この世のあらゆる出来事には因果が見出せるように感じる。


小池百合子の発案した熱中症対策の傘はデザインがダサいから浸透しないことは明白だったわけだし、7payはセキュリティがあまりにも杜撰だったから当然のようにサービス終了に追いやられたわけだし、少子化に対しての決定的な対策がなされないから老後に2000万円の貯蓄が必要とされるわけだし、具体性皆無の発言を国内外で繰り返すばかりだから小泉進次郎のメッキは剥がれてきているわけだし、歳入が減るから消費税は10%になる。

多くの物事には明白な原因によって結果が決定づけられていることが多々ある。


同じように、オレにとっての金杯にも当たらない理由がある。

「一年の始まりになる重賞だから」気合いは入るものの、「一年の始まりになる重賞だから」好きな馬を無邪気に買ってしまうことが大きな理由だ。クリッとしたつぶらな瞳、大きめの黄色いシャドーロールがトレードマークのノーブルマーズ。パドックではいつもチャカつきがち、怖がりで愛らしい7歳牡馬に初馬券の命運を託すことに決めた。


ちなみに冒頭で紹介した「ラプラスの悪魔」は、時を経て成立したプランクの量子仮説(から不確定性原理の成立)によって、その決定論的世界観が否定されることとなる。

すべてのものの未来は既に確定しているわけではなく、原因から生じる結果は一つではないとことが量子論的に定義されているというわけだ。つまり、私も今年こそは金杯を当てる所存というわけだ。相変わらずの馬券を楽しむ姿勢で競馬に臨むというわけだ。

新年のご挨拶:ブログを再起動しました

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住居を移し、会社員になり、気づけば100日以上も更新していなかった『放談リハビリテーション』なわけですが、2020年から記事タイトルの通り再起動させようと思いまして。新年にかこつけまして。そういうわけでして。

 

スター・ウォーズターミネーターマトリックスも……なんならトップ・ガンまで(!)リブートされる時代ってわけですからね。このブログが再起動するのも止むなしってわけでして。そして、空白期間が長ければ長いほど、再起動ってものは嬉しいもんなわけでして。これはつまり、私の筆不精っぷりが結果的に良かったんじゃなかろうか……と思うわけでして。いや、褒められようなことでも、比肩するようなものでもないってことは重々承知のうえで……

なんて書いてたら、カルロス・ゴーンが密出国ですってよ!

 

善と悪は人間の心のうちに、そして人間社会のうちにあって。自分たちのことを善だと思い込んでいる人が、実際のところ悪そのものだということもある。利己的な人生を歩む人は、自分が正しい善きことをしていると信じて悪事を働くってこともある(ジョージ・ルーカス理論)……そんなマイエピタフの悪例を象徴するようなキナ臭いニュースから始まった2020年なわけですが、一本でも多く「いいね!」と思ってもらえる文章が書き残せたらと思う次第です。歳を重ねるごとに「結局文章まわりしかできることがねえんだなあ……」と、自分の社会人・人間生活レベルの低さを痛感しておりまして。

 

つまらない慶春の挨拶ですが、挨拶ってのは往々にしてつまらないわけで!本年は何卒よろしくお願いします!

*写真はIR法案のいざこざにケチをつけている筆者