ま、有馬記念くらいは

有馬記念

私たち競馬ファンの多くは、その言葉の響きにわくわくするようなそわそわするような気持ちを抱く。年の瀬の浮つきに乗じてしまうからか「最後くらい夢を見てやるか」と、大金を張る人も少なくない。競馬ファンでなくとも、有馬記念という言葉は聞いたことがある、だとか、普段は宝くじを買わないけれど、年末ジャンボだけは買うような気分で有馬記念の馬券を手にした経験がある人も居るのではないだろうか。

そんな、年の瀬の盛り上がりを借りた年に一度のお祭りのような雰囲気を有するのが有馬記念の大きな魅力だ。それだけに、レースが近づくと「今年ももうこの季節がやってきたのか」と感傷に浸ることになる。一年の間に開催されたさまざまなレースを振り返りながら、年の瀬の大一番、有馬記念で本命を打つ馬について考えを巡らせる日を過ごすのだ。

しかし、今年は例年の気分と一味違う。その要因はなんといってもオジュウチョウサンの存在だ。オジュウチョウサンとは、競馬ファンであれば誰もが知る、“障害競走”における絶対王者。芝でもダートでもなく、さまざまな障害物を乗り越えながらゴールを目指す障害競走というレース体系において、前代未聞の9連勝を重ねた名馬。一般的に日本競馬は、芝のレースが格式も賞金も高く、次いでダート、そこから埋められない溝を挟んで障害競走という体系が存在する。各地の競馬場で行われるレース数は1日に12レースと決まっているなか、芝・ダートのレースがそのほとんどを占め、障害競走は1日に1レース行われるかどうかが関の山といった点にも、地位の低さが見て取れる。日本においては、現代に至るまで芝でもダートでも結果を残せなかった馬がたどり着く先として障害競走が存在すると言っても過言ではない。

馬主も競馬情報サイトnetkeibaのインタビューでこのように語っている。

「オジュウは平地を勝てなくて障害入りしたように、いわば“落ちこぼれ”のようなもの。」

そんなオジュウチョウサンが芝の競争に、しかも、国内有数一線級の馬が集結する年の瀬の大一番、有馬記念に駒を進めてきたのだ。ダートを主戦場にする馬が出走することすら珍しいなかで、障害競走を主戦場にしてきた馬が有馬記念の出走馬に名を連ねるということは、まさしく未曾有の事態と言える。

 

「頑張ればここまでやれる。今の閉塞した社会で、この馬を見て希望が湧いた人がいてくれるとうれしいね」さきに紹介したインタビューで馬主が続けて語っていた。

そう、一時は落ちこぼれだった馬がエリート揃いの出走馬に殴り込み、背中には国内有数の名手武豊を擁し、有馬記念の舞台に登場するのだ。例年の祭の盛り上がりにさらなる表情がもたらされた。

ワイドショーを眺めれば“高級住宅地”に児童相談所が建設されることを反対する市民、インスタライブで他国の代表を貶めるミスナントカが大写しになり、右も左も重箱の隅をつつきたがる世知辛い昨今だからなのか、私たちは勝ち負けがはっきりとつくスポーツの世界にいつも過剰に夢や期待を乗せたがる。しかし、私は勝ち負けだけを見たいのではない。勝負の裏にある美しい精神の物語が見たいのでもない。

唐突だが、映画『ヤング・ゼネレーション』があんなにも感動的で美しい映画であるのは、負け犬揃いのカッターズが最終的に勝利を収めるから、ではなく、大会出走に至る経緯の物語的感動、でもなく、「でもやる!」と決めた彼らが実際に肉体を苦しめながら自転車レースに挑んでいる姿そのものに、各々が自分を重ねて見させてくれる余白があるからなのだ。

それと同じように、オジュウチョウサンが、ジョッキー武豊が、肉体を賭して、少しでも早く、狡猾にゴール板を駆け抜けようとする・させる姿に透けて見える何かを感じ、楽しみたいと考えている。

 

こんなこと、目を血走らせながら新聞をにらみつけている普段の競馬への取り組み方では口が裂けても言えたものではないが、今年の有馬記念はそう思わずにはいられない。その走りをしかと見届けたい。私の本命はオジュウチョウサン

 

なんて感傷的なことを書いておきながら、当日は例年通り、有馬記念の結果を確認するやいなや、その後に開催されるレースの予想にそそくさと向かうことだろうし、同じように動く背中をたくさん見ることも予見される。

有馬記念だから特別…確かに特別なのだが…それだけではない…一筋縄ではいかない…だって最終レースも残されているのだから……

有馬記念の勝敗が決した直後から次のレースが始まる間に漂う、競馬ファンのあさましい欲望と愛おしい切り返しの早さが私はたまらなく好きだ。その時間を楽しむためにも私は今年もWINSへ足を運ぶ。

 

仕事の忙しさにかまけて今年はいよいよブログを更新しない日々が続いてしまいましたが、恥を忍んで更新してみました。ま、有馬記念くらいは。