『マンディ 地獄のロード・ウォーリアー』を観た

『マンディ 地獄のロード・ウォーリアー』を観ました、昨日。

新宿シネマカリテのサービスデーで1,000円で観賞。客入りは6割ほど。公開から1月ほど経ってますし、平日夕方からの上映回にしてはまずまずの入りなんじゃないでしょうか。やっぱりアレですかね。サービスデーってのが大きいんですかね。800円違うわけですもんね。いい歳した大人が800円の差をケチケチしたくないもんだよなとは思いながらも、自分もサービスデーを狙って来てるわけで、そうですよね。早速脇道逸れてしまいましたが、映画の話へバックアゲイン。

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この類の映画は「クレイジーにどんどん殺っちまえ!」「そうだ!いい殺し方だ!」と親指を突き立てたくなるかどうかが重要である。そして、“キモチイイ殺し”のために、殺しに至る真っ当な理由が備え付けられていると尚良い。

本作でのそれはキャッチコピーにもある通り『愛する人を奪った / 狂った悪魔を狩る』それが殺しに至る理由の全てである。ストーリーもそれが全て。


ニコラス・ケイジ演じる男の目の前でヒッピーのカルト集団に連れ去られたパートナーが焼き殺され、怒りに震えた男は自作の武器(ニコラス・ケイジが鋳型に鉄を流し込み!熱し!それを打つ!)と旧友から授かったボウガンを携えて敵陣に殴り込み、敵将の首を取る。もうほんとうにただそれだけ。なんてありきたりで軽薄なんだ!!!

しかも、シーン・セット同士の繋がりは希薄で、1ショットにかける執拗なフレーム数は偏執的、現実と夢の境目は曖昧で、パノフレア(LEDを直接カメラに照射してレンズフレアを起こさせる映像手法)を多用した映像はサイケデリック。悪くいえば映画の体を成していないんですよね。しかし、まあ監督自身が自作を“映画”とは呼ばず、“ナイーヴ・アート”と称しているようなんで、そういう批判は織り込み済みなんでしょう。いやはや、恐ろしく歪な作品でしたね。


とはいえ、私は嫌いじゃないんです、これが。

なんと言ったって、殺しのシーンがフレッシュ!チェーンソー同士の殺陣は初めて目にするものでしたし、ニコラス・ケイジが持つ武器は斧ですからね。斧!殺すための武器が斧って! さらに上に挙げた欠点も、良くいえばロブ・ゾンビ / ホドロフスキー的なアーティスティックさとして受け止められるってものです。

映画を始めとしたあらゆる創作物はウェルメイドである必要がないですし、いかにテーマ・物語がありきたりであろうと、それ以上に文体が物を言う場合があるわけです。両立されていれば尚良いわけですが、文体…つまり“こんな感じ”が好き! という状態になったりすることもあるじゃないですか。あるんですよ。

ちなみに音楽担当は先日の訃報がまだ耳に新しいアイスランドの至宝ヨハン・ヨハンソン。今作がまさかラストスコアになるとは。これだけでも一見一聴の価値がありますよ本当に間違いなく。

おススメしませんがおススメです。おススメしませんがおススメ。この感じが好きな人には刺さる作品かと。