『動くな、死ね、甦れ』を観た
二日酔いで仕事どころではなく、ひたすらネットサーフィンをしていて、見つけた。高田馬場「早稲田松竹」で『動くな、死ね、甦れ』の上映が始まる。
この映画はある時点の自分をシネフィルに導くきっかけとなった作品のひとつで…というと、カッコつけすぎな気もするが、まあ、なんだか強く印象に残り続けている作品なのである。初めて観たのは、老朽化による取り壊しで閉館になった鷹野橋のサロンシネマでの特集上映だった。まだ、高校生の頃、十数年前の話だ。
正直、この作品の何がそんなに印象深かったのかは、長年蓄積されたアルコールによる脳へのダメージで覚えていない(ラストシーンの“映画世界を拡張した”としか形容しようのない演出は覚えているものの)が、かつての自分にとびきりの一発を見舞ってきた映画であることは間違いない。観に行くほか選択肢がなかった。
1990年のカンヌ国際映画祭で鮮烈な印象を残してカメラ・ドールを受賞した青春ドラマの傑作。ヴィターリー・カネフスキー監督が自らの少年時代を基に、荒れた炭鉱町に暮らす少年と少女の苛酷な運命をみずみずしく描き、抑え切れない才能を世界的に知らしめた。何千人もの中から選ばれたパーヴェル・ナザーロフ演じる刹那(せつな)的に生きる主人公の、純粋すぎて痛々しい姿が胸を締め付ける。
第二次世界大戦が終わり、収容所地帯となったソ連の炭鉱町。12歳の少年ワレルカ(パーヴェル・ナザーロフ)はガリーヤ(ディナーラ・ドルカーロワ)の協力で盗まれたスケート靴を取り返すが、いたずらがバレて学校を退学になる。母親と愛人との関係や何もかもに嫌気が差したワレルカは、ほんの出来心から列車を転覆させてしまう。(シネマトゥデイより引用)
青年期に熱狂した作品を十数年後に見返したとき、かつてと同じ興奮が味わえないことはままある(自分にとって『ポンヌフの恋人』がその代表)。しかし、『動くな、死ね、甦れ』には、あの時以上にインパクトをくらった。
高校生の時分に比べ、曲がりなりにもいくらかの人生経験を積んだからなのか、主人公のワレルカとガリーヤ、そして彼らを取り巻くあらゆる“恵まれざる人々”の機微を察せ、この映画の持つ叙事的な奇跡みたいなものへの解像度が上がったことが大きいのだと思う。初見時の、刹那的に生きる主人公への憧憬よりも、映画で描かれる人々への慈愛に似た感情にヤラれてしまった。
先に紹介したあらすじではほとんど触れられていないが、この映画は紛れもない初恋映画である。『禁じられた遊び』しかり、『小さな恋のメロディ』しかり、『ラブーム』しかり、『グーニーズ』しかり……って最後のは違うか。まあいい。子どもの恋愛関係にはあらゆる制限があるぶん、その制限を逸脱する表象に作家・脚本家の工夫が表れる。だから少年少女の恋愛映画にはエポックな作品が多い(ゾンビ映画の進化・発展と同じ構造)。そして、自分はそんな映画が好きだ。
「人間がもっとも醜くなりうるのは恋愛においてであります。同時に、もっとも美しくなりうるのも恋愛においてであります。というよりは、ぼくは恋愛において美しくなりえぬ人間が、その他のどんな場所においてきれいごとを示そうとも、その人を絶対に信用すまいと覚悟を決めているのです。」
と言ったのが誰だったかは忘れたが、この映画には、恋愛の醜さを描きつつ、終始(衝撃的なラストの展開以外もずっと)恋愛の美しさをしっかりと描いている。他の数多くの映画よりも研ぎ澄まされた演出で、さりげなく、色濃く。愛の美しさについて高らかに謳われているのだ。この映画は信用できる。
とはいえ、恋愛にフォーカスを当てすぎると、『動くな、死ね、甦れ』の持つ多面的な魅力を矮小化してしまうきらいもある。それだけに難しいところではあるが、初恋映画として“も”本作はこのうえなく素晴らしいのだ。そして、恋愛映画として“も”もっとこの作品が評価されていいのではないかと思う。というか、されてくれ。
彼はいわゆる教育を全く受けていないストリートチルドレンで、彼とは楽に仕事をすることができたよ。他の人ではきっと無理だったと思う。実は、教育を受けていない子どもといあのは映画にとってはとても素晴らしいことなんだ。(中略)そして、彼はとても謎めいているよね。映画にとって、謎めいた部分というのはとても必要なものだと私は思っている。(ヴィータリー・カネフスキー インタビューより)
そんな風に評される主人公の姿は、本当に、終始魅力的である。
【余談】高田馬場に来たので昼飯はパブロフの犬的に「ばりちゃん」で済ませた。しかし、何度でも言うが前身の「ばりこて」時代のほうが数段旨い。それでも食うんだけど。