『移動都市/モータル・エンジン』を観た
本国ではYAとして消費されながらも、日本国内では大人の読者から支持を受けた原作『移動都市』の映画化。「世界中で興行的に大爆死している」という話を耳にしていたので、特に期待せず観に行ったが楽しめた。
原作が日本でここまで大人に受けた(『地底旅行』や『海底2万里』とは明らかに読者が違う)のは(版元の創元社のブランド力もあるだろうが)、キャラクターの心の渇きが描かれる世界の物理的・思想的な渇きと重なっているというメタ的な構造があったからだと考えている。しかし、映画版の本作は多くの人が指摘しているように、キャラクターの心の機微はなく、性格は一面化され、初登場時に人物の善悪がはっきりと見てとれる安易な描きこみに終始しているのだ。なんとも残念。
そして、ラストで明らかになるキャラクターの相関関係から、各国の好事家が「スチームパンク版『スター・ウォーズ』じゃねえか!パクリやんけ!」と怒り狂ったように評しているが、僕にとっては、パクリであることの悪さよりも、もっと悪い意味での相似形でしかなかった。それは『スター・ウォーズ8』との相似だ。より大問題である。まさかアジア系外国人の特攻まで相似させてくるとは!「これさすがに似すぎなんでやめときましょうよ」とはならなかったのだろうか。なんとも残念。
かつて、製作総指揮を担当するピーター・ジャクソンはインタビューで
「映画の中で起きる出来事やイメージは途方も無い事柄だが、誰もがリアルなものと信じている。ファンタジー映画はそうあるべきだ。」
と答え、自身の仕事を誇っていたが、今作の舞台、戦争を経て、かつての文明技術が失われた貧弱な時代にどのように“移動する都市”を建設することができたのか疑問に思えて仕方ない。
「マーケティングのこともあるので、多くのことは語れないが私の答え得る最善の意見はピータージャクソンが監督を担当しなかったことだ。その不名誉はジャクソンの絵コンテ作家、クリスチャン・リバーズに向かう。」と、ハリウッド・リポーター紙に評されていたが、そう書かれてしまうのも仕方ないほどお粗末なストーリー展開なのである。
ここまで、「〜〜〜だが、こうダメだった。」という流れの文章が四連発である。まるで映画を叩こうとしてるみたいじゃないか。観てる時はそれなりに楽しめたんだから、良いところを探そう。
と、考えると「映像がとにかくすごかった」という声が聞こえてきそうだ。たしかに映像はすごかったし、原作の世界を描こうという気概が感じられた。とはいえ、(CGに予算のほとんどを費やしたであろう)その映像も『バイオショック』みたいで、『マッドマックス』みたいで、『シン・シティ』みたいで、『ハウルの動く城』みたいで……と、表面的なパッチワークにしか思えず……
って、またまた悪いところしか書いてないじゃないか!
いや、音楽、とりわけSEは近年の映画と比較しても格段に良かった。これに比肩するのは『マッド・マックス 怒りのデス・ロード』くらいじゃなかろうか。壮大で未来的でありながら時代の連続性を感じさせる重厚なサウンドで、調べてみると、どうやら音楽担当はジャンキーXL。「僕は(今作の舞台である)ロンドンを長い歴史を誇る高貴な都市だと考えている。また、フーリガン行為が根付く都市でもある」と言い、オーケストラに加えてパーカッション、シンセサイザー、ベースギター、ハープ、コーラスなどを取り入れ、他にもごみ箱を叩いた音やチューブを吹いた音など、インスピレーションを与える音なら何でも採用。終いには、空になった巨大な燃料タンクの中で音源を収録し、クレイジーな残響とエコーを響かせたのだという。この音楽は一聴の価値あり。比肩するどころか、『マッド・マックス 怒りのデス・ロード』よりも魅力的なSEだったように振り返られる。
……と、賛否1:9のボリュームの文章になってはいるものの、冒頭に書いたように「特に期待せず観に行ったが楽しめた」。しかし、映画を観ている時は楽しめても、改めて振り返ってみると「あれ?全然だめじゃん。」といったことがままある。そういう場合は往々にして、製作側が映像・音楽それ自体に心血を注ぎ、キャラクターの機微やストーリーテリングをおざなりにしてしまっている。本作『移動都市/モータル・エンジン』もその類の映画だった。とはいえ、映画を観ている時は楽しんでいるのだから、酷な言葉だけをぶつけるのは違う気がする。いやー、評判悪い(ことになりそう)っすけど意外と楽しめるんじゃないすかね! そんなところです。