広島とカープと津田恒実(新潟記念)

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 我らが広島東洋カープが25年ぶりのペナントレース優勝、その時を迎えそうで心がざわつく日々を過ごしている。広島で生まれ、小学校の頃はカープが勝てば宿題が減り、カープが負ければ宿題が増える。カープの勝ち負けで大人の機嫌は大きく変わる、という異様な事実を目の当たりにして生活していたので、カープファンになるのは当たり前のことだった。毎夜毎晩、自然とカープを応援。自分が応援していた頃のカープというと、本当にただただ弱小チームでいつも順位は指定席の5位だっただけに、宿題が減る機会はめちゃくちゃ少なかった。それだけに勝った時の喜びはひとしお。そんなカープが2016年、もう宿題なんて関係なくなった年になってしまったが、優勝まであと一歩のところまで来てしまった。とにかく、不思議な感覚というほか、感想がない。「優勝を決めたら一体広島の待ちはどうなってしまうんだろう、アリスガーデンとか中央通りとか、どんちゃん騒ぎだろうな……」などなど考えていると、25年前、カープが優勝したそのシーズンは、一体どんな感じだったのか気になった。wikiで調べてみたところ、そういえばそうだったよな……と考えることがあったので、書き残しておこうと思う。

 

 昭和後期から平成初期(カープがそこそこ強かった時)のカープを語るにあたって、絶対に外せない選手の1人が、“炎のストッパー”と呼ばれ、セ・リーグの並み居る強打者を震え上がらせた津田恒美に違いない。1982年、ドラ1でカープに入団すると球団初の新人王を獲得。2年目以降はケガに悩まされたものの、86年にリリーフに転向すると、無敗で22セーブをあげてリーグ優勝に貢献した。甲子園で直球勝負をせず、カーブでかわそうとしたところでソロホームランを浴び、0-1で敗戦したことから“弱気は最大の敵”を座右の銘としてきた炎の男が引退した年こそ、カープが最後の優勝を決めた年だった。

 引退当時の話は壮絶。シーズンが始まって間もない4月14日、打者3人わずか9球で2安打1死球2失点と打ち込まれた、その当番が最後となった。キャンプイン前から体調不良を周囲に訴え続けていた炎の男が「もう投げる自信がなくなった」と言ってしまうほど肉体も精神も衰弱しきっていた。それもそのはず、津田の脳には悪性の腫瘍が存在していたのだ。戦線を離脱した彼はそれから2年後、闘病生活の末、帰らぬ人となった。

 その穴を埋めたのが先発としての活躍に陰りが見えてきて(90年の成績は6勝11敗)、津田とのダブルストッパー構想の一翼を担っていた大野豊だった。再度ストッパーに転向した大野は前半戦から大活躍、オールスターにも選出されるほどの成績でファンを魅了した。オールスターでファンからの期待を背負い、抑えのマウンドにあがった大野はバックを守る野村謙二郎をして「津田さんの気持ちが乗り移ったような投球だった。あんな大野さんは見たことがなかった」と言わせるほど気迫がこもった投球でノーアウト1塁2塁のピンチを3人できっちり締めくくる。後半戦もその頼もしい姿を見せ続け、当時の記録である14試合連続セーブを樹立するなどの活躍を続けた。その結果、カープはシーズン優勝を達成。胴上げ投手は大野豊だった。

 

 そんな両雄が紡ぎだしたドラマから25年。カープの優勝が期待される裏、中央競馬の世界で初の重賞制覇を期待されている馬がいる。バーディーイーグルだ。個人的に3歳馬で今後を最も期待しているプロディガルサンと併せた調教も良かったし、鞍上も強化、小回りコースから広いコースへの替わりも向く。斤量も据え置きだし、前走に比べて「楽」を感じて走ることができると見た。

 津田、大野が先発から抑えに転向して好成績をあげてきたように、この馬もダートから芝への転向で生まれ変わった馬。週末はこの馬に財布の中身を全部。