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好きということ(秋華賞)

馬券
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    その作品を読んでも、いまひとつ面白さがわからない。時間が経って読み返してみても、その感想は変わらない。にも関わらず、自分が好きになりたいと思うタイプの作家がいる。
「そんな無理せずに、自分が自然に好きだと思える作家を読めばいい」
そう言われてしまうと、返す言葉もない。でも何故だか諦められない。こんな気持ちってありませんか?
    自分の場合は坪内祐三がそういう作家なんですけど、不思議な気持ちですよね、これ。読んでいる作家で見栄を張るような年齢でもないし、その理由はわからない。けど、なんだかその人の書く文章は素敵なものだという思い込みがある、それを理解できない自分に問題があるのでは、とか考えてしまって、うん、そういう不思議な気持ちの話。
 
    とはいえ、“自然に好きだと思える”というのも不思議な感覚ね。と思うところもありまして……
 
    最近、映画『君の名は』を巡ってこんなツイートが拡散していた。自分もオタク気質なところのある人間だから(競馬好きな人なんてどこかしらオタクっぽい要素を持ってると思うぞ)、この人の意見には親指がつるほどサムズアップするわけで。それが人だろうと、作品だろうと、何かを好きになる時には、その理由を求めてしまうタイプなんですよね。
 
    その点、競走馬は好きになる理由がはっきりとわかりやすい。
    1番わかりやすいのは金か。人気薄の単勝を取れて、支払いが滞ってた電気代の工面ができた。そりゃその馬のことを好きになるもっともな理由だ。その馬が種牡馬にでもなって仔がデビューして応援したくなる気持ちもあるだろう。この、血が生み出すドラマ性も、馬を好きになる理由としてよくある話。あと、自己投影もそう。「生まれにコンプレックスを持ってる地方出身者はマル地を買い目に入れがち」という『パッパカパー』のエピソードに代表されるように、エリートじゃない九州産馬を自分自身と重ねあわせて応援してみたり、いつも最下位入線ながら一生懸命走るその馬の姿に、懸命に生きてる自分の毎日を投影させているとか。それだけではない。単純に走りに魅せられることもあるかもしれない。掲示板を狙うのではなく1着を目指して玉砕覚悟の大逃げを打つ馬の男らしさに惚れたり、とか。何にせよ、特定の馬を好きになるってのは結構理由が明確にあるよな、と思った次第です。
 
   そんな自分の秋華賞本命馬はジュエラー。この馬、好きなんですよね。桜花賞当日、買えども買えども馬券が当たらない中、メインレース前、財布の中にあった最後の5000円札で購入した単勝馬券に助けられた。
    その頃、馬券はスランプに陥っていて「これ以上負けがこむのなら月々の小遣いを減らす」と家人から処刑宣告を受けていた俺が面目を保てたのだ。その帰りに蟹をご馳走したら、すっかり機嫌は回復。というわけで、自分を救ってくれたジュエラー。大層に書き連ねるほどでもなく、稼げせてくれたことに感謝するという即物的な好意にらすぎないわけだけど、上にも買いたように好きになる理由のひとつであることには違いないはず。
 
    一度崩れた牝馬は立ち直るまで危険視せよ、というのは昔から言われてきた話なわけだし、そんなことはわかってる(いくらハープスターに飲み込まれたか!)。骨癌も見えてきていて脚元への不安もある。前走の大敗も不可解。不安要素は重々承知。ただ、自分としては現役牝馬を代表する馬、このメンツだと格が違う馬だと信じている。シンザン記念の走りは本物だった。シンザン記念で連対した牝馬は大物になる、とよくいう。実際には、ホッコービューティもいれば、ジェンティルドンナもいるわけで、鵜呑みにはできない話、あくまで傾向にしかすぎないわけだけど、俺はジュエラーの大物っぷりを信じている。信じる信じるって婚期を逃した独身女性が齢36で出来た彼氏に連呼してるみたいに言うけど、俺のジュエラーへの好意も本物。好きだからこそ信じる。
 
    馬を好きになるのと馬券は別だと言う人間がいる。その人の言うことはたぶん正しいのであろう。正しい人間はいつまでも正しいことをすればいい。だが、私は自分か正しいことを証明するために競馬場に通っているわけではない。何が言いたいかというとこういうこと。そんな御大、高橋源一郎の言葉を借りて締め!
 
 
 
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あ、過日の同様開催はこんな感じでした。
自慢させてください、自慢。