【おまけ】(追記)

(あまりに長くなってしまったので続きを別々のエントリとすることにしました。なんやよくわからないわ、って方はひとつ前のエントリをご参照ください)

 

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……と思っていたら……ヤフーニュースに掲載された記事に「熱のある」コメントがたくさん寄せられているじゃないか……!

とはいえ、コメントそれぞれにいちいちケチをつけて反論したいわけでもないし、何かを外に向けて書く以上致し方ないことだし、(なにより「俺はこういう考えでこうこうこうだから俺が正しいんだ!」などと反論しようと思うことは、視野狭窄の第一歩間違いなしなので、)ひとつひとつのコメントをありがたく受け止めています。ありがとうございます。そして不快に思われた方はどうもすみません。


って、なんだか優等生めいたリアクションなわけですが…… というのも、寄せられたコメントに目を通していると、昔読んだ本のことが頭をよぎったんですよね。その本の内容を思い返すと、ほんと素直に受け入れたいなと思ったわけでして。それについて書く。

知ってるつもり――無知の科学

知ってるつもり――無知の科学

 

頭をよぎった本はこれ。

滅多にビジネス書(らしき本)に触れることがない(そもそも棚に近づくことがほとんどない)のですが、この本は当時一緒に仕事をし始めたフランス人のナードに原書を薦められていたこともあって、邦訳が出たタイミングで読んでいたんですね。これが良かった。


インターネットの普及、そしてSNSの日常への侵出によって、同じ価値観を持つ人たちがクラスタになって、そこで共有されるものとは異なる意見を排除しようとする個人の営みが加速する昨今。あたかも何かに精通しているかのように振る舞うことでフォロワーを獲得し続けて悦に入る人まで存在する昨今。

「周囲は馬鹿ばかり」だとか、「自分は分かっているのになんであの人は…」という思い込みって、どうしても発生するものだろうし、インターネット上の辛辣な意見は、そうした発想が起点になっていると思うんですよね。

この本がまず指摘するのは、そうした発想、つまり「周囲は馬鹿ばかり」という発想が、ある程度正確だということ。ただし「周りの人も同じように考えている」という視点が欠けてはいませんか、ということからなんですね。

 

そうした自分への過大評価がいかに非論理的なのかを実験しながら話は展開し、“無知”は歓迎すべきものではないが、悲嘆すべきものでもないということ。なぜなら世界は複雑で、全体像は個人の理解を超え、無知は人間にとって自然な状態であるから…… にもかかわらず私たちは、多くのことを知っている、理解している、と思ってしまう。そのうえで“知性”とは個人が有するものではなく……っと、話はドライブして、人間は自分が思っているより、ずっと無知。さらに無知であるという自覚すら欠如してしまって、非合理的な判断・行動をとって個人や社会に危険な影響を与える。さすれば、個人として社会として、どうすれば無知を乗り越えていけるのか……としなやかに展開されて帰結を迎えるわけですが。結論は本を読んでいただくとして……


そうした視点…… なんといいますか、つまり、無知が前提というパースペクティブで、“全てをわかることはできないけど、わかろうとする姿勢でのわからない”状態をキープすることが肝要(で、“わかることを放棄したわからない”状態や、“わかった気になる”状態を避けることが、本書が最終的に帰結する“知識のコミュニティでの振る舞い”に通じるん)じゃないかと思うわけです。

 

故に、ひとつひとつのコメントをありがたく受け止めています。

そして、“全てをわかることはできないけど、わかろうとする姿勢でのわからない”ということを大切にすることは、僕が文春に応募した原稿のテーマにも通じる。とも思ってるわけでして…… コメントを書いている人は一体どれくらい自分の知性を信じているんだろうなあ…… って! それは蛇足。

 

p.s

泥酔