正しく選択するために(ヴィクトリアマイル予想)

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いやー毎日天気がいい。湿度もさほど高くなくて暖かい今みたいな時期って本当に気持ちいいですよね。

まさに、空のただならぬ燦めきは地上を覆うほど大きな斧のすずしい刃の光のようにも思われ(三島由紀夫オマージュ)、初夏の水分を含んだ空気を透す日光は、色ガラスの破片を降り落としているような美しさを漲らせて(田村敏子オマージュ)、射精管のように緊張して燃え上がり絶頂にたって堰を切って溢れ出しそうになっている太陽(大江健三郎オマージュ)が勢ぞろいとでもいいましょうか。

なんて、そんな近代文学の作家の豊穣な言葉を借りるまでもなく、外で飲むアルコールがただただ美味いですし、朝一番に洗濯した衣類も昼過ぎには乾いちゃいますからね、いやー本当に気持ちいい時期ですよ。洗濯物の乾きが早いと得した気持ちになれるし、太陽の香りもするようで本当に気持ちいいってもんで……洗濯……せんたく……うん、今回は選択の話。(ってひどい親父ギャグかつ無理やりすぎる持って行き方……ご容赦ください……)


まあ後ろを振り返らず書き続けることとする。「選択」について書こうとして、真っ先に頭に浮かんだのは、シェイクスピアが残した名言として知られる「人生は選択の連続である」という言葉だった。だけど、この言葉、実はシェイクスピアが残したものではないんですよね。ミームとでもいいましょうか、原文には連続を指す語は存在せず、人生を示したセンテンスもない。邦訳されているどの訳書をあたっても「人生は選択の連続である」なんて一文は見当たらないのだそうで。

出所が不明なものがここまで広がるというのは、人間の伝聞力の凄さの証明であると同時に、情報を取捨選択する能力の低さを証明しているわけですが、こういった具合に自分も周りの多くの人も「正しい」「当たり前」だと思っていたものが、根も葉もない噂や誤りだったということは意外と少なくない。バナナは下から皮を剥いた方が美味しく食べられるし、コウモリは盲目ではないし、人間の脳みそが数%しか使われてないなんて話もデタラメ。


つまり、実生活で情報の取捨を正しく行うためには「選択」に慎重にならなければいけないというわけですよ。

馬券を少しでも多く当てるためには「選択」に慎重にならなければいけない競馬と同じで。


と、ここにきて今週開催されるヴィクトリアマイルは5年連続で5番人気以下の馬が制してきた重賞競走で、なんとも本命馬の「選択」に頭を悩まされるレース。

一晩考えた挙句、結論を導き出せなかった私は本命馬を複数用意し、手広くフォーメーションを組んで馬券を購入することとした。レッドオルガ、ノームコア、ラッキーライラックから手広く手広くほぼ総流しの三連複で博打に出る。

ことによると(ドストエフスキーの小説でやたらと目にする接続詞)、100円が50万円に化けるような買い目も存在する(ドストエフスキーが博打狂いだったことまで含めたオマージュです念のため)馬券である。

前段にて偉そうに振りかぶって“実生活で情報の取捨を正しく行うためには「選択」に慎重にならなければいけないというわけですよ。”なんて書いてはみたものの、なにもかも慎重に日々をこなしていくことは不可能だし、「憎まれっ子世にはばかる」みたいな具合で、思考の放棄がいい結果に繋がることも少なくない。

ここはひとつ、ほぼ総流し買いという、ある種の慎重な「選択」の放棄が結果的に完璧な「選択」となるというオチを期待したい。