何を脳死で受け入れるか(弥生賞予想)

満員電車を降りて、改札を目指そうとする人でごった返すエスカレーター。長蛇の列。その列に並んでいる時、後ろのサラリーマンから舌打ちとともに「おっせーな」という声が聞こえた。そんなに急いでいるならガラガラの階段を使えばいいのに。たかだか10〜20段程度の階段だってのに。しかしその時、予定に向けて急いでいたのは私も同じだった。そんなに急いでいるならガラガラの階段を使えばいいのに、たかだか10〜20段程度の階段だってのに、である。彼も私も「人多いなー」なんて、ぼんやり思いながらも、その実なーんにも考えず、ただただ人の流れに身を任せ、エスカレーターの列に並んでいた、並ばされていたのだ。

普段意識こそしていないものの、こんな風に脳死で何も考えずに行動している(させられている)ことは、存外に多いのかもしれない。

考えてみれば、私にとって、肌着もその類のものだ。何も考えず「とりあえずユニクロ」で脳死チョイス。最近は手土産もその類。何の思想も持たずに店頭で目立つものを脳死チョイス。小腹が空いた時の軽食だって、髪型だってそう。

行動に対する選択肢は無数にあるにもかかわらず、他の選択肢を考えようともしないまま、惰性で脳死チョイス。

 

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出典:博報堂生活総合研究所「生活定点」


こんなデータがある。

Googleで検索すれば、瞬時に膨大な数の商品が表示れ、無限とも思える多様な候補から選択できるようになったことは、ひと昔前の田舎暮らしでは考えられなかったこと。自分の求めているものを探しさえすれば、見つけ出せる素晴らしい時代である。しかし、過ぎたるはなお及ばざるがごとし。上のグラフを見ると、多様すぎる選択肢に疲弊している人がいかに多いかがよくわかる。脳死チョイスも致し方なし。

多様な選択肢の反動とも言えるのか、近頃脚光を浴びているのがサブスクリプションサービスだろうか。衣類に化粧品・音楽・映像・ネイル・ラーメン・生鮮品に至るまで、どんどん“あなたへのオススメ”で済ませられるようになってきている。

人が自分で考えることをやめていく過渡期なんだろうか。このまま、テクノロジーが発展するにつれて、人は何も考えぬ、まるでゾンビのような存在に成り果ててしまうんだろうか、そんな後ろ向きな発想に流されてしまいそうにすらなる。

 

と書いたものの、自分もその毒牙に晒されている脳死チョイスへの流れを十把一絡げにして悪いと言いたいわけではない。

ただ、自分は何をおざなりにしがちな人間なのかを知るってことに無自覚であることを容認することには反対で、それは環境管理の奴隷にも近いことだと思う。

自分が何に対して脳死チョイスをしているのか、一度棚卸し・マッピングして、本当に大切にすべきものを見直すって作業が大事なように思う。というか、むしろそれが楽しい。

何もかもを無限の選択肢から自分で選択して生きていくってことはそもそも不可能。だから「脳死でいいや」と思えるものを「自認したうえで」能動的に脳死するってわけだ。


さて、脳死チョイス。私にとって、惰性の脳死チョイスでだらだらと選んではいけない(選びたくない)ものの筆頭として挙げられるのが馬券だ。多様な選択肢を前にして、それでもなお自分の力で最も期待値の高い目を探さなければいけない。今週末に開催される弥生賞で私が導き出した本命馬はブレイキングドーン。権利取りのかかったレースでの福永は満塁時の駒田徳広ばりに信頼がおける漢。スローを早めに押し上げて動いた分のロスが響いてホープフルSこそ惨敗してしまったが、アグネスフローラから続く馬力ある牝系。弥生賞を制す馬としての条件は整っている。能動的に、自分の意思で、この馬を選ぶ。