【番外編】ダービーデー / 東京競馬場に捨て去られたハズレ馬券を観察する【スピンオフ】
文春オンライン様にてこちらの記事が公開されました。「ダービーデー」当日東京競馬場に捨て去られた「ハズレ馬券」を観察してみると……という内容であります。手前味噌ですが、ニヤッとクスッとしながら読んでいただけるのではないかな、と。ご高覧よろしくお願いします。
っと!はい!ここからは番外編!スピンオフ!適当な雑文とともに、文春オンライン上では紹介しなかった馬券について、つらつらと書いていこうと思います〜!(やや雑な写真でありますが、ご容赦ください!)
遠方からダービーに集う競馬ファン
競馬場に捨て去られている馬券はなにも当日に購入されたものばかりではないんですよね。以前購入したレースのハズレ馬券を競馬場まで持参し、券売機に“一応”通し、ハズレを再確認してから破棄する層が一定数いらっしゃるようでして。この馬券もそんな慎重な人によって捨てられたであろうもの。馬券左下にWINS石和という印字。石和ってどこ?! と不勉強な私は即座にハイパーインターネットサーチ(Google検索)をしました。山梨だそうです。ダービーですもんね。そりゃ遠方から人が集いますよね。改めて認識させられた次第です。
三強を信じて
サートゥルナーリア・ヴェロックス・ダノンキングリー。案の定多かったこの組み合わせ。購入金額もその他の組み合わせとは段違いです。なんともやるせない。一筋縄ではいかない博奕の魅力が漂ってくるようでもあります。
ロジャーバローズは拾ったのにな……
三強の馬券が多く買われていた……のに、三連単は19万円。「配当渋いなあ」なんて声が色んなところから聞こえてきて自分もウンウンと頷いていたのですが、寸手のところまで来ている馬券はいくつもあったんですよね。ロジャーバローズ…意外と買われているんですね。いやあ本当に競馬ファンうまいですねえ。いや、ここで紹介している馬券はハズレ馬券に違いないんですけど。それでも「うまいなあ」と唸ってしまう馬券であります。
結果は果たして……
この馬券群は恐らく同じ人が購入したと考えられるもの。いやはやうまい。というか、この人多分当たってるんじゃないかな?発券番号にヌケがあるというわけではないので、確信はできないものの、そんな気がします。これでハズレてたとしたら…… 想像するだけでウッとなってしまいますわ。
と、そんなところでしょうか!
こんな感じで雑に〆ようかと思っていたのですが、Twitterを通じてリアクションくださった方の中にびっくり仰天のものがありましたので、そのやりとりを紹介して、〆に代えようかと思います。
RT>大昔につくった2冊の本『あやしい馬券心理ファイル~その愚かで美しいハズレ馬券はなぜ買われてしまったのか?~』『日本ハズレ馬券を考える会馬券心理鑑定書』(いずれも谷川弘虫・著)を思い出して懐かしかった。😄 pic.twitter.com/UKwmGEiVUT
— 古き良き時代のノンフィクション書籍編集者 (@EDEN_RRR) 2019年5月28日
この記事は読んでいませんでした汗。まさかの本当です。あの2冊は競馬好き編集者だった私にとって大変思い入れのある大切な本です。それを読んで、こうして面白がりの精神を継承してくれている人がいるということに、得も言われぬ歓びを感じました。今後も、さらなるご活躍を願っております。
— 古き良き時代のノンフィクション書籍編集者 (@EDEN_RRR) 2019年5月28日
ヴェロックスの写経馬券、いいですね。笑いました。昔に比べて馬券の種類が増えてますから、面白みも増えてると思います。あの2冊はほぼ完全書き下ろしだったので、いまの時代に文春オンラインというメジャーな場所で書けるというのが素晴らしいことだと思います。さらに良い物件期待しております。
— 古き良き時代のノンフィクション書籍編集者 (@EDEN_RRR) 2019年5月28日
いや〜、こんな風に紹介してしまうと、この方におべっかを使っているようでもあるし、ドラマチックにしたいがために感傷に浸っているようでもあるし、読んでくれる1人ひとりには常に平等に謝意を持っているわけでありますが、ちょっと感激してしまったので。自分も後世にそんな風に感じてもらえるような何かができればいいな…… と、分不相応に思った次第であります。
運・運命(日本ダービー予想)
古代ギリシア人は<人生に影響を与えつつも人知を超えた、計り知れない働き>というものに強い感受性を持ち、また、それを多彩な仕方で表現してきた。
現在まで伝え継がれてきたギリシア神話『イリアス』の中にもその一端が見てとれる。
全世界は三つに分割され、三兄弟が各々それぞれの権能を割り当てられた。くじを引いて私は灰色の海にいついつまでも住むことになり、ハデスは暗々たる闇の世界を、ゼウスは高天と雲の漂う広大な天空を得た。そのほかに大地と高峰オリュンポスとは、我ら三神に共通のものとなった。されば私はゼウスの思い通りに生きるつもりはさらさらない、彼がいかに強力であろうとも、三分の一の持ち分に甘んじて、おとなしくしておればよいのだ。(『イリアス』15.189-196)
古代ギリシアの最も強大な神々であるゼウス、ポセイドン、ハデスの三兄弟が、自分たちの領地を定めるのにくじ引きを行った神話において、その次第をポセイドンが語る場面を引用した。
ここから読んでとれるのは、くじ引きという行為は神々であっても、恣意的に望むくじを引くことはできない、つまり、原理的な公正さを持っているということ。と、同時にくじ引きという公正で平等な方法は、結果が平等であることまでは保証しないということである。
そこで続けて見えてくるのは、くじ引きに象徴される、人間にはコントロールできない超越的な作用を、必ずしも単なる偶然の産物とは捉えず、むしろそれを運命として、すなわち必然の作用として、当時のギリシア人が受け止めていたということだ。なにもギリシア人に限った話ではなく、木片や石を投げることで、物事を決め、吉兆を判断してきた歴史は日本にだってある。
偶然に任せる方法によって、かえって必然的な運命を見定めようとする儀式は、世界中の文明・文化で広く見受けられる。あらゆる場所で人類は、運で運命を定めてきたのだ。
結果は“運”に左右される“偶然”で、その後の“運命”に“必然”を見る。そんな話を長々とタイプしたのは、週末に開催される祭典・日本ダービーの話につなげるためでして。
日本ダービーは(今さら書くほどでもないほどに有名な言葉だが)“最も運のいい馬が勝つ”という格言を有するレースであり、ギリシア神話を照らし合わせると、最も運のいい馬として見事にダービーを勝った馬は、ダービー馬という称号を得て馬生を全うする運命を背負う、と言える。
そんな運命に相応しいと考え、本命の印をつけたのはサートゥルナーリア。馬券の妙味を考えると、他の馬に本命を打ちたくなるところではあるが、能力の高さに疑いの余地はなく、調教過程も万全、隙のないレースぶりも好感で…… そして何よりも、ダービーで当馬に騎乗を予定していたルメールが騎乗停止処分を受け、世代最強馬の背中に跨ることになったレーン騎手(に「伝統あるレースをポッと出の騎手に勝たせるわけにはいかない」という批判も聞こえてくる)が、“最も運のいい……”という格言のある日本ダービーにおける勝利ジョッキーに相応しい、と考えたことが、本命印の大きな理由かもしれない。彼の運がどんな運命を定めているのか。本命の印を打ってしっかりと見届けたいのだ。
人間にとって世界の多くの部分は見通すこともコントロールすることもできず、運、運命にどうしても翻弄される。しかし、それでも、ただ成り行きに従って流れるのではなく、ときに気高く賢い仕方で、ときに弱く馬鹿げた仕方で、もがきながら対処し続けようとする姿に、人間らしさが立ち現れる。
これまたギリシアの詩人であり『オイディプス王』を著したソポクレスの言葉だが、まるで毎週のように競馬を続ける私たちに向けられた言葉のように読めてしまう。
ダービーが終わると新馬戦。競馬界における新たな一年が始まるわけで。まだ気が早いですが、次の一年も「人間らしく」競馬を楽しみたい所存であります。
ギリシア神話に関する話はこの内容をメモしていたノートから切って貼ってしたもので、それ自体に明るくないので間違ってる箇所もあるかもしれません!ご容赦!西洋哲学史としても面白かったので、ご興味ある方は是非〜。
(追記)
本日、葵ステークスのアウィルアウェイにお金を賭し、ダービーの資金を増やそうという作戦を実行します。
さながら運試し。この運がどう転ぶか。その結果によってダービーに賭けられる金額が決まるという運命ってわけです。
競馬における「オイ!オイ!」問題について
【競馬場ビギナーの方へ】
— 競馬動画集 (@_Keiba_Movie) 2019年5月20日
特に、学生などの若い方に注意です。
ファンファーレで「オイオイ!」と叫ぶのはやめましょう。繊細な馬が驚いてハイになり、実力を発揮できなくなります。自分の叫びで、本命馬が負ける可能性だってあります。
声が出るのは仕方ないですが、叫ぶのはやめましょう。 pic.twitter.com/cUi3GSYD9h
こんなツイートが自分のTLに流れ込んできた。
またこの話か。もう飽き飽きですよ。
このアカウントを運営してる人がどうこうっていうつもりは全くないですけど、競馬初心者を抜け出したあたりでこういうことを声高に叫ぶ人って少なくないですよね。それでいて、揃いも揃って「ズバリ!オイオイはやめた方がいいでしょう!」って正論を持論のように言い放って悦に浸って。君たちはなんだ、丸尾くんか。って打ち込んだあたりで“丸尾くんってあの丸尾末広をつい連想してしまうなーイメージと全然違うのになー”と思っていたら、丸尾くんという名前は実際に丸尾末広をもじって名付けられたらしいです。丸尾くんのフルネームは丸尾末男っていうそうで。ひえー。知らなんだ。小学校の頃、あれだけSFCの『ちびまる子ちゃん めざせ!南のアイランド!』を散々やりこんでたっていうのに知らなんだ。というか、なんでだ、それだけ狂気的なキャラクターってことか。
まあ、そんなよもやま話はさておき、自分の場合、競馬場で叫ぶのはお好きにどうぞの立場で、もうあれですよ。レース前の昂りは「ああ出来たら当たってほしいもんだわねえ」って感じで、ほぼ的中間違いなしの隊列でも「あらこれはいいわねえ」って感じで、入線して的中が確定してからも「ああよかったわねえ」って感じで。自分のエラーを帳消しにするホームランを打ったあとの前田智徳みたいな感じで。求道者みたいな心境でレースを見てますからね。求道者なんて書いておきながら、まあほとんど馬券はハズれるんですけど。そうして道を求めていく過程が永遠に続くからこそ競馬が楽しいんですけどね、はい。
そもそも、ダービーを勝ち切るような馬は超越した精神性を持ってると思うんで、オイオイくらいで怯んだりしないし、オイオイに怯みそうだと思うなら、自分の予想から外せばいいだけで。そこまで含めて予想することが一興なんじゃないですかね。陣営もそういう“数多の情念が渦巻く”スタンドだってことは重々承知のうえでレースに送り出してるわけですから。自分もオイオイについては「盛り上がる気持ちはわかるけど品がないわねえ」なんて思ったりしますけど、自分の言い分が絶対正義だと思うかのように全方位拡散で学級委員長的な物言いを憚らないだなんて……随分立派な人もいるもんだなあと思った次第であります。
オイ!オイ!
そりゃ湿っぽくもなるよ(優駿牝馬予想)
遠藤ミチロウに、チューバッカ役のピーター・メイヒュー、ツイン・ピークスのペギー・リプトン、『知りすぎていた男』のドリス・デイ、京マチ子…… 5月に入ってからというもの、心穏やかではいられない訃報が連続した。
著名人の訃報に群がっていち早く「お悔やみ申し上げる」ようにはなりたくないと思っている。ひとつひとつの訃報について「ああだこうだ」と触れることにも引っかかりを感じてしまう。しかし、この連続はあんまりだ。単純に悲しい。
最近は主にインターネットを通じて訃報が毎日のように(ほぼリアルタイムで)飛び込んできて、すぐに人の死が過去のものになってしまう。そんな現状もやりきれないものがある。まさしく光陰矢の如しといった具合だが、そんな速度感の世の中だからこそ、ひっそりとしめやかに個人的に喪に服していきたいなと思う次第であります。
なんて湿っぽくなってしまってちゃしょうがない!よーし!今週も競馬楽しむぞー!
優駿牝馬で本命の印を落とした馬はシェーングランツ。加速に時間はかかるものの最高速度の爆発力は一品級で府中のクラシックディスタンスに最も向くと考えた。オークスではジョディーとコントラチェックの果敢なハナ争いが想定されるも、2頭が離れたハナ争い、距離が伸びて実質ペースが落ち着けば、前目に取りつけて直線でその豪脚を発揮するのみ。
これだけ悲しいニュースが続いているんだから、せめて競馬くらいはいいことが起こってほしい。
藤沢調教師と武豊。立場こそ違えど、互いに一線級でしのぎを削ってきた2人。藤沢和雄から「俺も残すところ3年。もうひと頑張りするから助けてくれ」「調教に乗りに来てくれ」との声をかけられ、それに快く応えた武豊がシンボリクリスエスで果たせなかったタッグでクラシックの栄光に輝く。そんなドラマが見たくなる。程度には湿っぽくなってしまっている。
よーし!今週も競馬楽しむぞー!
スポーツ“ファン”シップについて考えた
東京ドーム近辺を散歩ルートにしている身として、年々こうしたトラブルを目にすることが増えている。一昨日の楽天日ハム戦でもSNACK SHACKの前あたりで言い争う男女を目にした。
昔のように、甲子園お馴染みの踏み絵(スタンド入り口にばら撒かれた巨人選手の野球カードを踏みつけながら球場に入場する)や、「くたばれ読売」などの過激な応援(そもそも応援じゃないけど)フレーズがそこかしこで見聞きされる時代ではない。
にも関わらず、個人個人の揉め事が増えているのは一体なんでなんだ。過激なトラブルが起きている実数を正確に計り知ることはできないし、たまたま自分がそうした場面に遭遇することが増えているだけかもしれないが、気になったので考えてみた。
時代が変わったからこそ溜まってしまうフラストレーションが真っ先に思い浮かぶ。大きくわけて二つ。
・断続的なネガティブ情報への接触
SNSで「#carp」「#giants」などと検索したウインドウを開いたうえでの野球観戦はとても楽しい。自分では気づかない選手の細かな動作、知らなかった知識に触れられることもあるし、得点や好プレー時などの喜びが重なる瞬間には擬似同期的な昂りがある。
その一方で過剰な毀誉褒貶ぶりで選手を貶める発言が目につくこともある。贔屓の選手について苦言を呈す人もいれば、アンチとして煽るように暴言を吐く人もいる。個人の意見が表面化するぶん色々な種類のネガティブ情報に接触することがどうしても増えてしまう。野球ファンであればTLに野球好きが何人かいて、それぞれが好き勝手につぶやく(それがSNSの魅力だけど)わけで、それを目にする時間もさまざま。かつては野球観戦中とプロ野球ニュース放送中くらいでしか感じなかったフラストレーションを断続的に受け取ってしまう状況に置かれている人は少なくないように思う。
・コミュニティ意識の高まりによる弊害
Twitterが登場した頃、ウォーホルの「人は誰しも15分間は世界の有名人になれる」といった言葉がやたら持て囃されていたように、当初は個人の小さな声をあまねく伝える拡声器としての意義が強かったTwitterだが、現在はその役割を脱色しつつあり、コミュニティの扉といった色合いが強くなってきている。複数アカウントの所持、趣味垢なんて言葉も一般化。野球応援用のアカウントを持っている人も少なくないように見受けられる。となると、起こりうるのが「(内)外集団同質性バイアス」で、贔屓を共有している自分たちの集団は、もう片方の集団よりも優れているという集団意識が形成されて、他球団のファンを「自分たちとは別の集団に入っている人たち」と見なし、過度の仲間意識、集団意識、ひいては差別意識につながってしまう。そこまで排他的になる人がどれだけいるかは不透明なものの、そうなるきっかけは確実に増えている。
最近のファン同士の過激なトラブル増加について、ぱっと思いついたのが上の二つだった。別にこの状況、そしてこの現状に加担している人たちに苦言を呈したいわけでは全くない。
いろんな人がいる。だから面白い。
そもそも“正しい”応援なんて存在しないし、“正しい”ファンなんて存在しないと思っている。「嫌な気持ちをする人がいるからやめましょう」「トラブルを起こさないようにしましょう」といった文化搾取の優等生的な意見を表明したいわけでもない。むしろ、過激とされる人たちの熱のこもった応援は自分にとってある種の球場ならではの風景だという思いすらある。とはいえ、その熱そのままに自分がトラブルに巻き込まれたら嫌ですよねー。
というわけで、スポーツ“ファン”シップなんて言葉があってもいいのかもしれないなあと思う。
・競技そのものへの愛着
・対戦相手へのリスペクト
・贔屓球団を応援している自分を相対的に見ることができる
自分が野球を観戦する上で最低限持っておきたいスポーツファンシップは上の三つ。
皆さんのスポーツファンシップはどんなもんでしょう。そんなもん必要ないって?まあそういう向きもありますよね。
プロ野球「嫌われ球団」を全国調査! 総合1位は巨人、でも地域別に見ると...(全文表示) - Jタウン研究所 - Jタウンネット 東京都
以上、同情にこそ慣れているが、批判の的になることに慣れていないカープファンが忸怩たる心境を棚卸ししつつ吐露した次第であります。